|
寝支度を調え、ベッドの中で大事にしているテディベアを抱きながら、美咲は深いため息を吐いた。 (はあ…明日も行きたくないけど、そんなわけにはいかないし…) 学校での成績は優秀なほうであったが、それだけで学園生活が楽しいわけではない。大人しい性格のせいか友達は少なく、当然のように親友と呼べる相手もいなかった。 (…先輩もいないし…) テディベアをベッドに寝かせ、自身も横になると美咲は去年の体育祭を思い起こす。 ・・ 「はあ、はあ…」 ニカッと笑った眩しい笑顔を思い出すと、美咲の胸がトクンと高鳴る。 「おいおい…美咲、大丈夫か?」 その時笑った立樹の顔に、美咲は思わず見とれ、時が止まる感覚を覚えた。体育祭がきっかけで交換したメールアドレスには、頻繁にではなかったが立樹からメールが届くようになり、美咲は高鳴る胸の理由が立樹への「恋」であることを知ることになる。 ・・・ 今年は美咲が三年生で、二年生と一年生を引っ張っていかなければならない。しかしコミニュケーション能力が低く、引っ込み思案な美咲は上手にリードすることが出来ず、毎日のように行われる体育祭の練習に嫌気が差していたのだ。 「おー、美咲。どうした?」 直後、けたたましい音が受話口から聞こえ、美咲は思わず耳を携帯電話から離した。 「先輩! どうされたんですか? 凄い音が…先輩?」 美咲がいくら問いかけても立樹からの応答はなく、聞こえてくるのは女性の叫び声と、救急車を呼ぶよう求める声、そして「事故だ!」という大勢の人々の声だった。美咲は何度も立樹を呼ぶが、相変わらず立樹の声は聞こえない。美咲の額に、嫌な汗が流れる。 「まさか先輩…!」 立樹が事故にあったと決まったわけではない。しかし、家でじっとなどしていられない。パジャマのままでは気が引けるが、お洒落をしていく事態でもない。一番近くに掛けてあった制服を着用し、美咲は家を飛び出し駅前に向かった。 「先輩! 先輩!!」 救急車はサイレンを鳴らして走り去り、しばらく経つと野次馬も一人、また一人と散っていく。最後に残った美咲は落ちていた立樹の携帯を発見すると、その場に立ち尽くした。 (嘘…私が電話をかけたせいで、先輩は…事故に?) 美咲は頭を抱えてしゃがみ込み、ヒビの入った立樹の携帯を握りしめた。少し離れた場所にはパトカーが停まっており、事故を起こしたであろう運転手が事情聴取を受けている。 「ごめんなさい、ごめんなさい、先輩…私の、…せいで」 水たまりに膝を付くと、美咲の瞳からはポロポロといくつもの涙がこぼれ落ちた。涙は水たまりに落ちて溶け、降り注ぐ雨粒が水たまりを更に大きくさせていく。 「……?」 ゆらり、とそれが動く。それは、長い髪の女性だった。水たまりの向こうから美咲を見つめている。状況だけで言えば恐ろしい出来事のように思えるが、美咲は不思議と恐怖を感じなかった。水たまりの向こうに映る女性は、そっと腕を美咲に向かって伸ばす。ちゃぷ、と水たまりの揺れる音が聞こえると、白い腕が美咲に向かって伸びる。 「……」 これは誰なのか? 夢なのか? 幽霊の類だろうか? 女性の白い腕は美咲の頬に今にも触れそうだ。美咲はぎゅ、と固く目をつむったが、頬どころか体のどこにも女性の腕が触れる感触はない。 「おい、本当なんだろうな。嘘だったら怒るぞ」 突如草むらから現れた男性二人に驚き、美咲は言葉を失った。 「す、すみません! ここで水浴びしてるなんて思わなくて」 白い法衣のようなものを纏った大人しそうな男性と、頭にターバンを巻いた男性の二人組だ。二人の刺さるような視線に耐えかねた美咲がおずおずと口を開く。 「あの…何か?」 歯切れの悪い法衣の男に美咲は首を傾げ、ターバンの男は怪訝そうに美咲を見つめる。 「おい、お前随分変わった格好してるな。どこの国から来た?」 先輩の事故、長い髪の女性、突然変わった景色、聞き慣れぬ単語。美咲の頭は混乱していた。先程は確かに雨が降っていたはず。それは美咲の髪や制服についた水滴が証明している。 「先輩…」 立樹が事故にあったことを思い出し、美咲は俯き静かに泣き出した。 「ほら! 兄さんがそんな怖い顔と声で言うから」 美咲は指先で目尻に溜まった涙を拭うと、小さな声で「美咲」と答えた。 「美咲、か…美咲ね。おい、一度俺たちと一緒に来い。聖域に連れて行く」 法衣の男は草をかき分け道を作り、美咲を先導した。 「エレニオル様! ミスティオ様! やはり私たちに黙って外出されていらしたのですね。全く…」 ピラミッドばかりに注意が向いていたが、下の方に目線を移すと、門番なのであろう女性が立腹した様子で立っていた。 「あはは、ごめんごめん。けど…もしかしたら僕たち、見つけたかもしれない。ついに、さ」 美咲は、じっと自分の顔を見たまま何も言わない女性に戸惑い、自分から声をかけた。女性はハッとした様子で姿勢を正し、お辞儀をしてニコリと微笑んだ。 「ようこそシュルムプカへ。どうぞ、中へお入りください。エレニオル様とミスティオ様も。マクシェーン老師にあまりご心配をおかけにならぬよう」 美咲はターバンの男に引っ張られ、ピラミッドの中に足を踏み入れた。美咲の頭は混乱しっぱなしで、ただ黙ってエレニオル、そしてミスティオと呼ばれた男二人の後ろをついて歩く。 「さ、乗れよ」 乗って一体何をするのかわからず、美咲はただただ戸惑うばかりだ。 「それは違う階層に一瞬でワープするポータルだから怖がる必要はない、…ってきちんと説明しなきゃ駄目だろ、兄さん」 ターバンの男に背中を押された美咲は、バランスを崩しながらも辛うじて石の上に立つことが出来た。足元にある石の周りに波紋が広がり、次の瞬間には景色が変わる。 「別に怖かねぇだろ?」 部屋の奥から、一人の老人がゆっくりと姿を見せる。法衣の男と似た白い法衣を身にまとっており、年齢は七十歳前後だろうか。とても優しい顔立ちの老人だ。 「エレニオル様、そのような大声を出さずとも聞こえておりますよ。マクシェーンはここにおります。どうなさいました?」 マクシェーンと呼ばれた老人が、加齢のせいか小さくなった目を大きくして美咲を見ると、美咲は気負いしターバンの男の背後に隠れた。ターバンの男は更にその背後に回り込み、美咲の背中をグイッと押す。 「シュルムプカの神子なんて、どんな神々しい美女かと思いきや…ガキじゃねぇか」 どうやら法衣の男がエレニオルという名前のようだ。彼は女性の申し出を聞き入れ、女性は美咲に微笑みを向けて「私が先導しますので」と口を開き歩き出す。先程とは別のポータルの上に立ち移動すると、再び景色が変わる。基本的には同じ構造なのか、廊下の両脇に水が流れており、蓮の花が揺れている。未だ混乱はしているものの、少し余裕が出てきた美咲は蓮の花にしばし見とれた。 「聖域に咲く蓮の花は美しゅうございましょう?」 元から人見知りをする美咲は、恥ずかしさを隠すためやや俯いて歩くことにした。女性はそれ以上声を発することはなく、やがて石造りのドアの前で足が止まった。 「ここは私達神官見習い用の風呂場なのですが…こちらでよろしいですか?」 引き止める声も虚しく、女性はお辞儀をしてドアを閉め立ち去ってしまった。確かに美咲の体は濡れた制服や髪のせいで冷えていたため、風呂を借りられるのは有り難い。シャワーで体を流した後、普段は大勢で入るのであろう、一人で入るには広すぎる浴槽に身を沈めた。 「ふう…。のんきにお風呂なんて入ってて、いいのかな…」 温かな湯が雨のせいで冷えた美咲の華奢な体を包む。 「きっと夢だよね…、だから先輩もきっと…」 風呂の湯に反射する美咲の顔は今にも泣き出しそうだ。 (きっと夢だから…もうすぐ、覚めるから) 右目から流れた一筋の涙は、湯の中に落ちて溶けていった。 ─…十分に体が温まり、風呂からあがると制服の代わりにタオルと代わりの衣服が置かれていた。先程の女性が着ていたものと同じだろう、黒いサテンのワンピースと、半透明のストールが二枚。美咲はお洒落に疎いこともあり、ストールを二枚もどのように着用すればいいのかわからず、四苦八苦していると「失礼します」の声の後、ドアが開いた。 「あら…私としたことが、お着替えお手伝い致します」 ワンピースはただ着るだけだが、どうやら半透明のストールは真ん中を肩にかけ前後に垂らし、ベルトを用いて腰で固定し、それより下は垂らして着用するようだ。 「とてもお似合いですよ。では大広間に戻りましょう、神子さま」 来たときと同じポータルに乗り、美咲は先程の大広間に戻った。先程よりも空気は重たく、美咲の歩く道を守るようにして神官たちが立っている。美咲を先導していた女性もそこに並ぶと、通路の先に立つ神官の男─恐らくエレニオルという名前の男だ─が美咲を呼んだ。美咲はゆっくり通路を進み、うつむき加減で口を開く。 「あの…」 白い法衣を着た男が名を名乗った。品の良い豪奢な椅子に座ったエレニオルは優しく微笑んだ。 「で、俺がミスティオ。見ての通り、エレニオルとは兄弟で俺が兄」 そんなことを聞かれても、と美咲は口をつぐむ。立樹が救急車に運ばれている姿がフラッシュバックし、体がぶるぶると震えた。何を言えばいいのかもわからないが、言葉を発することも難しい。震えだした美咲を見て、エレニオルはマクシェーンに助言を賜ろうと視線を向けるが、マクシェーンはひげを撫で、目を細めて美咲をじっと見るだけだ。 「シュルムプカでは近年、大小を含めた様々な異常が発生している。神聖なる水の汚染、その水を飲み凶暴化する人々や動物…上げだしたらキリがない。古よりの伝承で、シュルムプカを始めとする六大神は、その神力を持って異なる世界に干渉する力をも持つと言われている。そして己が守護する国に危機が訪れた時、神に選ばれし神子をこの世界に召喚する、と」 皆の視線が美咲に集まる。美咲は緊張しながら、言葉を選んで口を開いた。 「私は…夢を見ているのだと思っています。シュルムプカという国名は見たことも聞いたこともありません。きっと…きっとショックで夢を見ているだけなんです。だから先輩も、先輩も…」 先輩という言葉を発した途端、美咲は目尻いっぱいに涙を溜めたが、すぐに指で拭い取った。 「おいおい、夢なんかじゃないぞ。シュルムプカはここに存在している。国も、民も、そして神もだ。現実受け入れろよ」 美咲は俯いたまま、気にしなくていいという意を込めて首を横に振った。 「大丈夫。君が神子かどうかを確かめる簡単な方法があるんだ。それを行えば、女神シュルムプカから力を授かっているか否かがすぐにわかる」 美咲は受け入れがたいことの連続で憔悴していたが、違うとわかれば病院に向かえるのだからと自らに言い聞かせ「わかりました」と小さく呟いた。
|
11
2021.5
※コメントは最大500文字、10回まで送信できます