第二話 戸惑い

第二話 戸惑い

 美咲に神子としての力が宿っているのかを確かめる方法は、至ってシンプルなものだった。まず美咲の前に白いテーブルが置かれ、その上に水の入ったコップが置かれた。その異臭に、美咲は思わず顔をしかめる。

「あの…これは?」
「女神シュルムプカは神子が“穢れを払い清らかなる浄化の力を得る”という言葉を残した、と先程話したね。そしてシュルムプカで起こっている異常は水が関わっている。それが穢れ。穢れを祓うというのは、つまり穢れた水を浄化する力のことだと古くから信じられているんだ」
「それで、私はどうすれば…?」

 エレニオルは困ったように笑う。

「それは、こう…神子の力で…」

 その場の誰もが黙り込む。沈黙を破ったのは、ミスティオの大きなため息だった。

「で、マクシェーン。どうすればいいんだよ、何か知ってるだろ?」

 ミスティオに問われたマクシェーンは、ゆっくりとした動作で髭をなでながら唸る。いくらマクシェーンが経験豊富な神官といえど、神子が現れたのはシュルムプカ有史以来の出来事だ。知らないのが当然である。

「困りましたな…、確かに女神シュルムプカの残した言葉通り、穢れた水を浄化する、というのは間違えていないと思われますが…そうですな、ミレーネに聞けば何かわかるやもしれません」
「ミレーネ…確か、マクシェーンが小さな頃に知り合った人魚の名前だったね」
「左様でございます。人魚は知識が豊富ですゆえ、力を貸してもらうと良いでしょう」

 美咲は「人魚」という単語に戸惑っていた。そんなものは、童話やおとぎ話の世界に存在する架空の生き物の名前だ。しかしどうやらシュルムプカでは違うらしい。

「ならミレーネに会いに行くのが良いね。彼女が居た場所は覚えてるかな?」
「それが…私も幼い時分でしたので、記憶が曖昧でございまして。なんとなくであれば覚えているのですが」
「そうか…闇雲に探すのは得策ではないね」

 エレニオルとマクシェーンは首をひねって考え込むが、ミスティオだけはやる気が無いらしく大きなあくびをしていた。しかし、そんな彼が目尻に溜まった涙を指の腹で拭いながら、思わぬ提案を持ちかける。

「じゃあフレムランカのババアに聞けばいいんじゃねえの」
「ああ…フレムランカのおババ様か…確かにそれはいいかもしれない」
「フレムランカ…人魚…おババ様…」

 話についていけない美咲は、聞き慣れない三つの単語をぽつりと呟いた。その様子を見たエレニオルが、顔を上げてにこやかに説明を始める。

「ああ、美咲。勝手に話を進めてすまないね。まずはこの大陸にある六大国の話をしようか。まずは僕たちが住む、このシュルムプカ。女神シュルムプカを信仰し、加護を受けている国なんだ。今は女神シュルムプカの力が弱まり、水の穢れが発生しているけれど…本来は美しく豊かな水が溢れる国だよ。水の国、とも呼ばれているね。フレムランカは火の国とも呼ばれていて、一年中暑いからシュルムプカの人々は苦手な人が多いのだけれど…フレムランカの神はとても強い戦神でね、そのせいか優秀な戦士が多く、性格も気さくで明るい人達が多い。喧嘩っぱやいのも特徴のうちかな…」

 エレニオルは話を続ける。鉱山に恵まれた地の国アーデイト。難攻不落の空中都市、風の国ウイラエイラ。そして対立し合う、光の国クロスラナと常闇の国ローゼスハイネ。
 数百年前は争いを繰り返し、領土を奪い合った六大国だが、現在はそれぞれの国を守護する神の力を必要とし、互いに協力し合って生きているのだと言う。
 ただ、クロスラナとローゼスハイネのように、戦争こそしていないものの対立している国もあり、シュルムプカとフレムランカも水と火という正反対の性質上か、積極的な交流は行っておらず、水を浄化している以外、国同士の付き合いは殆どない。
 説明を受けた美咲が軽く混乱すると、エレニオルは「ゆっくり覚えて」と微笑んだ。

「行くなら早いほうが良い、けど…支度もあるからね。二日後にここを出ておババ様のいるフレムランカの国境近くに向かおう。おババ様に会うのなら、僕と兄さんが直接出向いたほうがいいから、美咲と僕と兄さんの三人で出発だね」
「おいおい、それ俺いるのかよ。別に危ない道でもねえし、俺は留守番でもいいだろ」
「凶暴化した野獣が出るかもしれないだろ? 僕は戦闘向きじゃないんだから、兄さんも来てもらわないと」

 ミスティオは両手を頭の後ろで組み、チッと小さく舌打ちした。

「こんな時にあのじゃじゃ馬はいねえのかよ」
「もうすぐ戻ってくるとは思うけど…二日後に間に合うかは微妙だね。とにかく出発は二日後。留守の間、ここはマクシェーンに任せる。構わないかな?」

 マクシェーンは落ち着いた声で「かしこまりました」と答えた。
 美咲はこれまでの会話から、エレニオルがこの聖域で最も権力のある人物なのだと察する。マクシェーンとの関係や、恐らく実兄であるミスティオのことは、まだよくわからなかったし、ミスティオが「じゃじゃ馬」と称した人物のこともよくわからなかった。

「僕はそれまでにやるべき仕事を終わらせておくから、兄さんも体を慣らしておくように」
「へーへー」
「それじゃあ、美咲も疲れてるだろうから食事の時間まで休むといい」

 美咲は困惑したあと、最後のあがきとばかりに語気を強めて言う。

「あの、私本当に神子なんかじゃないんです! 家に…、病院に行きたいんです」

 エレニオルは困り、眉を下げながら美咲に返答をした。

「少しだけ待ってほしいんだ。美咲が神子かどうか確認する方法は、恐らくミレーネにならわかるはず。人魚は人嫌いだから、簡単に見つかるとも考えにくい。そこでフレムランカの国境にある、おババ様を訪ねてミレーネの居場所を占ってもらう。ミレーネならきっと、穢れを払う方法を知っていると思うんだ。その方法を試したあと、美咲が神子ではないと判明したら、必ず病院に送り届けるから…頼むよ。並行して書庫にある書物を徹底的に調べるから、君が元の世界に帰る方法も一緒に探すと約束しよう」
「……今日は…もう、休ませてもらいますね」

 何を言おうと、美咲は家にも病院にも行けない。しかし、希望がなくなったわけではない。書庫を調べて何かがわかるかもしれない。帰る方法が見つかる可能性もある。それに何より、今日は色々なことが起こり美咲も疲弊していた。

「ああ、そうだね。部屋を用意させているから、そこで休むと良い。食事の時間になったら知らせるよ」
「神子さま、私がご案内致します。こちらへどうぞ」

 物腰柔らかな女性神官が美咲に微笑みかけ、美咲を先導する。美咲はエレニオルとミスティオ、そしてマクシェーンに軽く会釈をした後、女性神官の後につきポータルの上に乗った。
 ポータルはどういう構造なのか美咲には皆目見当もつかず、一度歩いただけでの理解は難しそうだ。何度かポータルに乗り移動を繰り返した後、女性神官はアーチ状のドアの前で立ち止まった。女性神官が握り玉をひねりドアを開けると、美咲に中へ入るよう促した。
 中は質素だが寝心地の良さそうなマットの敷かれたベッドがある。美咲の足は自然とそこへ向いた。

「ありがとうございます。じゃあ私はこれで…」
「私は部屋の外で待機しておりますので、ご用命がありましたらお申し付けください」

 美咲はもう一度お礼を言い、部屋の中に入るとベッドに腰掛けそのまま後ろに倒れ込んだ。はあ、という深い溜め息が美咲の口から漏れる。
 何が何やら全くついていけない。
 今の美咲にわかっていることは、何故か自分が神子と呼ばれているということ。この国はシュルムプカという国で、同名の女神を信仰していること。そして美咲に穢れを払う能力があるかを調べるため、人魚に会わなければならないこと。そのためにも「おババ様」に会わなければならないこと。わかっているのは、この程度だが混乱するには十分だ。

「一体何が起こってるの…わからないよ…、先輩…」

 腕で目を覆い、キュッと唇を噛んだ。瞼の裏に映るのは、担架で運ばれる立樹の姿。

「先輩…」

 これは長い夢なのだと自分に言い聞かす。目を覚ましたら、きっと自分の部屋の見慣れた天井が目に入るはず。そうしたら、一刻も早く立樹の元へ行こう。
 立樹の顔を思い浮かべながら、美咲はゆるやかに夢の中に落ちていった。

 ぴちゃん…ぴちゃん…

「ん…」

 ぴちゃん…ぴちゃん…。
 水面に雫が落ちるような小さな音が、繰り返し部屋に響く。

「…、…」

 その音に呼応するかのように、どこからか声が聞こえた。とても小さな声でよく聞き取れないが、美咲の名前を呼んでいるかのように思えた。

「だ、誰?」

 外で待機しているという、先程の女性神官だろうか。気がつくと辺りは真っ暗で、ぼんやりとしか部屋を見渡せない。ドアの方を向き「あの!」と声をかけるが、外からの返事はなかった。その代わり、先程よりしっかりとした声で美咲をよぶ声が聞こえた。

「美咲…、…を手に入れなさい…」
「え…?」
「……を……」

 声はどんどん弱々しくなり、結局何が言いたいのか、何を伝えたいのかがわからないまま部屋は静けさを取り戻したが、それが不気味に思えた美咲はベッドから飛び降りると慌てて部屋のドアを開けた。あまりの勢いに、外で待機していた女性神官がビクリと肩を震わせる。

「わっ…い、如何なさいましたか?」
「い、今! 私の部屋に誰か入ってきませんでしたか?」

 美咲の突拍子もない発言に、女性神官は怪訝に首を傾げる。

「いえ、どなたもこの部屋には入れておりません」
「で、でも今」
「…そろそろお食事の時間ですが、神子さまはどちらでお召し上がりになりますか? エレニオル様やミスティオ様はご一緒に食事をされますが」
「あ…ご飯は、別に…」

 不要だと言いかけたとき、お約束のようにお腹がぐうと鳴った。

「お疲れのようですから、こちらの部屋でお召し上がりになりますか?」
「えっと、は、はい。お願いします」
「ではお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」
「その前に…お手洗いはどこにありますか?」
「先にお手洗いへご案内致しましょうか?」
「いえ、道順さえ教えて頂ければ食事の用意をして下さっている間に行ってきます」

 女性神官は柔に微笑み、トイレへの道順を美咲に伝えると、食事を取りに廊下の奥に姿を消し、美咲も道順を忘れぬうちに部屋を後にした。

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