第三話 薄い毒

 用を足し終えたはいいものの、美咲はこの広い聖域の中ですっかり迷子になっていた。どこかでポータルに乗り間違えたのだろうが、それがどこであったのかももう思い出せない。他の神官とすれ違うこともなく、焦燥感にかられながらそれでも歩みを進めた。

「うぅ…私、方向音痴なのに…」

 やはり付き添ってもらえばよかった、と先程の自分の言葉を後悔した。
 先程案内された部屋と似たドアを見つけては、ドアノブをガチャガチャと回す。しかし、鍵がかかっているか、空室が続くばかり。
 しばらく待ってみたが、やはり他の神官も来ず、ならばやはり、歩み続けるしかない。
 いくつめかのポータルに乗ると、一直線の廊下が続く部屋に出た。美咲の部屋がここでないことは明らかだが、戻っても仕方がない。美咲は廊下をゆっくり進み始めた。
 中頃まで進んだ、その時…─

「ちょっとアンタ! ストップ!」

 突如背後から聞こえたのは、若い女の声。美咲はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
 そこに立っていたのは、赤い髪をサイドでお団子にした、美咲と年齢の近そうな少女だった。少女は怒っている様子で、両腕を腰に当てて、深緑の瞳で美咲を睨んでいる。

 いきなり現れた少女に驚き、美咲はつい少女を上から下までじっくりと眺めてしまった。上半身は和風の紅い着物風のトップスで、首元には目の色より明るい緑のストールが巻かれている。
 ボトムスとの間には、うっすら割れた腹筋と小さなへそ。そして黒いスパッツから伸びる太ももは、程よく筋肉で引き締まっており、とても健康的な印象を受けた。

「あんた、見かけない顔ね。この先に何があるのか、知らないわけじゃないでしょ?」
「えっと…その、知らないんです。ごめんなさい」
「嘘つかないでよ! 見たことないけど、ここの神官でしょ?」
「こ、これは違うんです」

 美咲は、先程風呂を借りた際に、鉄紺色の神官であることを証明する服を借りている。故に、少女は美咲をこの聖域の神官だと思っているようだ。

「私、佐倉美咲っていうんです。神官ではないですし…怪しい者では…」
「さくら…みさき? 怪しい人が自分は怪しい者ですって言うわけないでしょ。ちょっと着いてきなさい!」

 少女は美咲の腕をぐっと掴むと、廊下の先にあるポータルには乗らず、元来たポータルに乗る。美咲を怪しんでいる様子だが、その心配よりも人と会えた安堵感のほうが勝った。
 早歩きの少女にペースを合わせるのは、少々辛かったが、やがて目の前に大きな扉が姿を見せた。
 アーチ状のドアであることは他の部屋と変わらないが、両サイドに剣や槍の彫像が飾られており、他とは違う雰囲気を感じられる。
 少女はバンッとドアを開くや否や、大声を張り上げた。

「パパ! 儀式の間の前に変なやつがいたの!」

 部屋の中に居たのは、神官よりも重装備を身に着け、腰に剣や槍を携えた男女であった。彼らの視線が少女に集まる。

「イオ! ドアは静かに開けなさいと何度言ったらわかるんだ、馬鹿者!」
「ひゃっ…ご、ごめんなさい、パパ。で、でも! 不審者を連れてきたんだから!」

 少女─イオという名前なのだろう─がパパと呼んだ筋骨隆々の中年男は、視線をイオから美咲に移すと、その鋭い瞳はどんどん丸くなっていく。

「み、神子さま!」
「…神子さまぁ?」

 イオと呼ばれた少女は首を傾げて、美咲を見つめる。その瞳は、パパと呼ばれた中年男と同様に丸みを帯びていく。

「さくら、みさき…。確かにこの辺りでは聞かない不思議な名前だよね…、ってことは、え、本当に神子さまなの?」
「ち、違います! 私は神子なんかじゃ」
「じゃあ、何なの? ここにいる理由は? 神官でもないのに、どうして神官の服を着て聖域内をウロウロしていたの?」
「こら、イオ! …申し訳ございません、神子さま。私はこの聖域で側仕えをしております、デニルと申します。それは実娘のイオ。娘の不躾は全て私の責任でございます。罰するのであれば、まずは私から」
「い、いえ。罰するだなんて…そんなこと考えてないですし、そんなにイオさんを叱ったりしないでください。私が自分の身分を証明出来ないことは事実ですから…。あの、イオさん。私は、二日後にオババ様に会うのだと、エレニオルさんとお話しました」

 イオの丸くなった目が、オババ様という単語に反応し、更に丸くなっていく。

「え? オババ様って…、どうして?」
「私に神子としての力が宿っているかを確かめる、その方法を聞きに行くのだと…」
「そうなの。じゃあ、まだ神子さまって決まったわけじゃないのね。ねえねえ、美咲って呼んでいい?」
「えっ、あ、はい」
「イオ!」

 デニルがイオの腕を掴もうと、巨大な体躯には似合わぬ速度で迫る。
 イオはそれをヒョイッと避けると、小さな赤い舌を出した。

「私は神子さまと呼ばれるより、佐倉か、美咲と呼ばれたほうが落ち着きますから…」
「ほーら、ね? パパ。改めて…私はイオ! よろしくね美咲」

 イオの笑顔はまるで夏にさんさんと輝く太陽のようで、その笑顔につられて、美咲の顔にも笑顔が咲いた。ただ一人、イオの父であるデニルは硬い表情のままであったが、イオと美咲が話す様子を見て、一応の納得はしたようだ。
 イオの背後から、デニルが「失礼な態度は取らぬように」と釘を刺すと、イオは再びぺろっと赤い舌を出しながら「はーい」と答えた。

「美咲、ご飯は食べた?」
「まだです。部屋で食べようと思ってたんですけど…、お手洗いに行ったら迷子になってしまって」
「ああ、それであそこにいたのね。確かに聖域内は慣れない人からしたら迷うかも…、通りで。部屋まで私が案内してあげる!」

 言うが早いかイオは美咲の手を取り、ずんずんと歩き出す。彼女の歩幅は大きいようで、美咲は必死に足を動かした。

「それで美咲、部屋の特徴とか覚えてる?」
「え、と…アーチ状のドアだったことしか」
「この聖域のドアは殆どアーチ状。他には? 部屋の内装とか」
「ベッドと…木製のテーブル、椅子がありました」

 一生懸命部屋の内装を思い出すが、これといった特徴がない。

「んもー! そんなのどの部屋も一緒だって。というか、神子さまだって言われてるのに、そんな普通の部屋に通されたの? まぁこの聖域内にスイートルームなんてないしどれも質素な…あっ、こんなこと言ったらまたエレニオルに怒られそう。あははは!」

 大きな口を開けて笑うイオを、美咲は羨ましそうに見つめ、緊張が和らいだ。ぎゅっと手を握ったまま、イオは「そうだなぁ」と歩みを進める。しかし、しばらくするとピタリと足を止めて口を開く。

「多分、この時間ならエレニオルもミスティオも食堂でご飯食べてると思うんだよね。そこ行こうか? 美咲が部屋に戻らないとなると、神官から連絡もあるだろうし、大丈夫だよ。お腹空いてるでしょ?」

 返事の代わりに、美咲の腹がぐぅと鳴った。顔を赤くする美咲を見て、イオはまた太陽の様に笑う。

「私もお腹ぺこぺこ。行こ!」

 いくつものポータルを乗り継ぎ、角を曲がって行く。美咲には、もうどこをどう歩いたのか、わからないくらいだ。
 やがて一際大きなアーチ状のドアの前に立つと、イオはドアをノックもせずに勢いよく開け、声を荒げた。

「エレニオルー! ミスティオー! 美咲連れてきた!」
「ッ! げほっ…げほ…ッ」
「っ…てめぇ、いきなり大声出してドア開けんじゃねえ、じゃじゃ馬!!」

 突然の大声に驚いたエレニオルは口元を手で覆ってむせ返り、ミスティオも飲もうとしていた水を、驚きのあまり膝元に零していた。
 「じゃじゃ馬」と呼ばれたイオは、不快感を顕にし、拳を振り上げながら、先程より大きな声を上げる。

「じゃじゃ馬って呼ぶなあ!!」
「どこからどう見てもじゃじゃ馬だろうが!」
「なんですって?!」
「いいか? まずじゃじゃ馬じゃない女はドアを静かに開けるんだよ!」
「そういうミスティオこそ、驚いて水こぼしちゃうなんてだっさ~い。膝元濡れてますけど?」
「あ?!」
「何よ!!」

 喧嘩が始まったのかと、美咲は狼狽えながら、ミスティオとイオの顔を交互に見る。しかし、同室にいたマクシェーンをはじめとする他の神官も慌てる様子がなく、止める気配もなく、食事を続けている。
 口元をナフキンで拭ったエレニオルが、ぴしゃりと言い放った。

「兄さん! イオ! ここは女神シュルムプカ様の聖域内であることを忘れていないかな?」

 それを聞いたミスティオとイオは、バツが悪そうに互いから視線をそらす。

「チッ…」
「あ、ごめんなさい」

 ミスティオは舌打ちをした後、膝元をナフキンで拭ってからゆっくりと腰を下ろし、イオは胸の前で小さく手を組み女神シュルムプカに祈りを捧げた。

「女神シュルムプカ様…どうか私をそのお慈悲でお許し下さい…。ミスティオのせいだけどお許しください…。ところでさ、エレニオル」
「相変わらずイオは切り替えが早いね…」
「美咲が迷子になってたから、ここに連れてきたんだけど。よかったよね?」
「迷子? それはまた、どうして」

 美咲が事情をかいつまんで話している最中に、美咲の食事を取りに部屋で分かれた神官が、血相を変えて「神子さまが!」と駆け込んできた。かなり息が乱れてる所を見ると、必死に美咲を探していたのだろう。食堂にいる美咲を見ると、へなへなと座り込んでしまった。

「美咲ね、祭壇の間に通じるポータルの前にいたの。だから不審者だと思って、パパのところに連れて行っちゃった。見かけない顔だけど、神官の服着てるし」
「祭壇の間に…? 迷ってそこにたどり着くというのも、何か意味があるように思えるね」
「えー、まさか。偶然じゃない? 女神シュルムプカさまが美咲を呼んだ…とでも言うの?」
「まぁ…今日はもうその話は終わりにしよう。美咲、折角ここへ来たのだし、皆で食事をするのはどうかな?」
「そのつもりで連れてきたの」

 先程部屋で見た夢のせいか、折角だが用意してもらった部屋で一人食事をする気分でもなかった美咲にとって、イオとエレニオルの提案は喜ばしいものだった。
 普段、食事の支度や後片付けを進んで行う美咲にとって、聖域内での上げ膳据え膳はどうにも落ち着かないが、どこに何があるのかもわからず、家族という見知った顔もない今だけは、この状況に甘えることにした。

 食事の内容は質素なものであった。少し固いパン。薄いコンソメスープ。千切りキャベツと豆のサラダ。気持ち程度に添えられた、二粒の葡萄。飲み物は牛乳で、美咲は小学生の頃の給食を思い出した。

「今は水の汚染が進んでいて、作物が不作でね…豪勢な料理でもてなしが出来ず、すまない」

 不満げな顔をしていただろうか、と美咲はブンブンと首をふると慌てて笑顔を浮かべる。

「そんなことないです! このスープ、とても美味しいですよ。キャベツもシャキシャキだし…」
「そう…? なら良かった。僕たちも水の浄化の儀式は行っているのだけど、なかなかね」
「…? 神子じゃなくても、水の浄化って出来るんですか?」

 ならば「神子」の意味とはなんだろうか、と美咲は首をかしげた。

「進行を僅かに遅らせる程度の浄化はね。女神シュルムプカが神子に授ける力ほど強力なものではないし、完璧に穢れを浄化させることは出来ないんだ。そして浄化も全ての神官が出来るわけではなくて…僕と、マクシェーンだけ」
「お前が旨いって言ったスープを作るための水も、この地の水を飲んだ牛から絞った牛乳にも穢れは侵食してるぜ。軽い毒を摂取してるようなもんだ。人間ならすぐにどうにかなったりはしねえけどな」
「そう、なんですか…。あの、ミスティオさんはエレニオルさんのお兄さんなんですよね?」

 同じ血を分けた兄弟で、能力に差があるものだろうか。純粋な美咲の疑問に、ミスティオは「ああ」と答えた後、質問の意図を理解して言葉を続ける。

「あー、俺は浄化の儀式は出来ねえんだ。これに関しては生まれついての才能みたいなもんんだな。同じ時代にエレニオルとマクシェーンがいるだけでも奇跡的。だから兄弟であっても、聖域を継ぐのは浄化の能力があるエレニオルだ。俺が出来るのは穢れた水を摂取して暴走した動物の処理とか、戦闘におけるサポート全般だな」
「そ、そうですか…あの、すみません」

 ミスティオは「別に」とぶっきらぼうに返すと、固いパンを齧った。
 食器とスプーンがぶつかる、微かな音だけが部屋の中に響く。何か気の利いたことが言えないだろうか、と美咲は話題を探すが、あいにくこういった場面には慣れていない。
 薄味のスープを飲みながら考えているうち、皿の中のスープは空っぽになった。
美咲より少し早く食べ終わったミスティオや他の神官は、既にこの場にはおらず、空席も目立ち始めている。エレニオルは食後の牛乳を飲みながら、イオは葡萄を皮ごと口に放り込み、頬杖をつきながら雑談をしていた。

 他者とのコミュニケーションが苦手な美咲は、食べるのも遅い。やっと最後の一口、固いパンを口に入れると咀嚼しゆっくりと飲み込んだ。最後に牛乳を飲むと、ミスティオの言う「毒」という言葉が脳裏をかすめた。

「神子さま」

 優しく美咲に話しかけたのは、老師マクシェーンだ。彼の癖なのか、ゆっくりと長い髭を撫でながら、目を細めてにこにこと笑っている。

「今日はお疲れになられたでしょう。夜の聖域内はとても静かです故、どうぞごゆるりとお休み下さい」
「え…っと」

 部屋で見た夢のことを思い出し、美咲は思わず口ごもる。夢が怖くて眠れない、一人は怖い…なんて子供のようなことを言うのは憚られた。その様子を見た膜シェーンは、更に目を細めてイオの名前を呼ぶ。

「イオ、今宵は神子さまのお側でその御体、お守りしては如何かの」
「え、私ですか?」
「神子さま、イオは火の国フレムランカの生まれですが、今は父デニル共々、我がシュルムプカに忠誠を誓っている優秀な従者、側仕えでございます。神子さまのお側に置けば、ご不安も幾分か和らぐことでしょう」
「そういうことでしたか。任せて、美咲」

 イオは鍛え上げた力こぶを見せて、ニッと頼もしげに笑った。
 その笑みを見た安心感か、空腹が満たされたからか、美咲の口から小さな欠伸が漏れる。どうやら思っている以上に疲れているようだ。

「じゃ、食べ終わったみたいだし行こうか」
「はい。あの、失礼します。おやすみなさい」
「おやすみ、美咲。ゆっくりと休むんだよ」
「ありがとうございます」

 余所余所しい挨拶を交わして、美咲はイオと共に部屋を後にした。

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