第四話 出立

 美咲はイオの案内で、無事元いた部屋に戻ることが出来た。
 ベッドに腰掛けた途端、凄まじい眠気と疲労感に襲われる。今日は様々な事が起こったせいで、自分が思っているより心身ともに疲れているのだろう。
 洗面所へ行き、寝支度を整えると、早々にベッドへ入った。

「イオちゃん、おやすみなさい」
「ちゃんなんかつけなくていいって。イオでいいよ」
「で、でも…」
「普段からイオとか、ムカつくけどじゃじゃ馬とか言われてるから、ちゃんって呼ばれるとくすぐったいんだよね。まあ、とにかく今日はもう休んで。大丈夫、私がちゃんとついてるから」
「う…ん…」

 イオと話しながら、美咲は既に半分夢の中だ。間もなく、すうすうと寝息を立て始めた。
 イオは椅子に座り、少し頭を前に傾けて腕を組む。そんな姿勢ではあるが、当然周囲への警戒は怠らない。美咲と年齢の変わらない少女ではあるが、これでも戦人としての性質が強いフレムランカ出身だ。感覚はとても鋭く、僅かな動きや音でも見逃さないという、天賦の才能を持っている。
 穏やかに流れていた空気の流れが変わった。

「う…」

 原因は美咲にあった。悪い夢でも見ているのだろうか、掛け布団を握る手は強く握りしめられ、眉間には皺がより、苦悶の表情を浮かべている。

「せん、…ぱ…」
「?」

 イオは美咲の顔を覗き込んだ。その唇が震えながら「せ、ん、ぱ、い」と動く。しばらく唸った後、美咲は再びすぅと小さな息を立てて寝入った。
 しかし次の瞬間、美咲はガバリと凄まじい勢いで起き上がる。あわや頭突きされるところであったが、イオの反射神経はずば抜けており、簡単にそれを回避した。

「美咲、うなされてたけど大丈夫?」
「はっ…は…」

 息を切らせる美咲の額は、汗でびっしょりだ。

「水、飲む?」
「…はい」

 イオはサイドテーブルの上に用意してあった、水の入ったポットからグラスに水を注ぎ、美咲に手渡した。受け取った美咲は、ごくごくと大きな音を立てて飲み干し、息を整える。

「先輩って言ってたけど…どうかしたの? 話したくないならいいけど」
「先輩は…。先輩は、私のせいで事故にあったんです」
「…? よく話が見えてこないんだけど。事故って?」

 ぽつりぽつりと美咲は立樹の事を話し始めた。立樹に対して憧れがあることは隠し、電話中の事故についてのみ話したが、聞き終えたイオはニヤッと口の端を上げる。

「なるほど、なるほど。美咲はその立樹先輩のことが好きなわけね」

 ぼんっとわかりやすく美咲の顔が赤くなる。

「ななななな、ちち、違います! どうしてそうなるんですか!」
「あはは、わかりやすすぎ! でも安心した。神子さまと言っても、やっぱり女の子だよね」
「……」
「私もね、最近好きな人が出来たんだぁ…」

 イオは頬に手を添え、うっとりとした瞳で語りだす。恋愛話で意気投合とまではいかないものの、美咲もまた、イオが年相応に恋愛を楽しむ少女なのだと知って安心した。

「あの、イオちゃん」
「イオでいいって」
「…イオ…ちゃん」
「…は~、いいよ。しばらくはそれで」
「おババ様って、どんな方か知ってますか?」

 イオは椅子に深く腰掛け、腕と足を組んでうーんと唸った。

「私はおババ様に会ったことがなくて。エレニオル達から聞いた話になっちゃうんだけど…。知る人ぞ知るって感じの占い師みたい。あまり表には出てこないタイプのね。フレムランカって、占いとか祈祷がとても盛んなの。お祭りとかね。詳しくは知らないんだけど、エレニオルとミスティオが小さな頃お世話になったみたいね」
「…あれ?」
「え?」
「あ、あの。ごめんね、イオちゃんってミスティオさんにじゃじゃ馬って呼ばれてる?」
「そう! あのバカ、私のことじゃじゃ馬って呼ぶの!!」
「あはは…。おババ様の所に向かう二日後に間に合うかは微妙だって、エレニオルさんが言ってたから」
「ああ、それね。穢れの影響で凶暴化した野獣を退治するって仕事だったの。数は大したことなかったし、それに最近入った新人の側仕えがすっごく優秀でね! 強いし、かっこいいの! それにねそれにね」

 イオの話が再び恋愛話に戻る。椅子から身を乗り出し、もう立っていると言っても良い。
 新人の男性側仕えが非常に優秀で、戦闘能力も申し分なく、あっという間に野獣の退治を終えたのだという。涼し気な目元がクールだの、無口なところがミステリアスだの、イオはひとり盛り上がる。
 しかし、彼の力があったとはいえ、あの程度なら私一人でも余裕だったと加え、得意げな顔をした。
 その男性側仕えは退治した野獣の後処理を行うため、現場に残っており、イオは彼の活躍やかっこよさを、早く友人の神官に話したくて走って帰ってきたのだという。
 一体どれほどの距離を走ったのかはわからないが、凄い体力だと美咲は感心した。

「そ、そうなんだ。じゃあ私はもう寝ます…」
「え~、これからがいい所なのに! 今度続き聞いてね?」
「はい」
「絶対だよ? 絶対!」
「う、うん」

 イオは何度も美咲に念を押すと「約束ね」と笑って再び椅子に座った。

「あの…イオちゃんはベッドで寝なくていいの?」
「ああ、大丈夫大丈夫。マクシェーン老師から美咲のことを任されてるし、一晩や二晩寝ないくらい大丈夫だから。フレムランカ出身だからね、こう見えて結構タフなのよ」
「…そっか。それじゃあ、おやすみなさい。疲れたら休んでね」
「ありがと。おやすみ、美咲」

 イオが側にいることに安心し、美咲はすぐ眠りにつき、もう悪夢を見ることもなく朝を迎えた。
 部屋でとる朝食もとても質素なものだったが、元より少食な美咲には丁度良いくらいだ。「相変わらず足りないわ」とイオは文句を言って、既に空になったコップを何度も恨めしそうに持ち上げては戻す。
 ミスティオとイオは美咲とエレニオルの護衛として、鍛錬に励むとのことで各々が訓練に向かい、美咲はエレニオルの側で彼の仕事を見ていた。
 次々と運ばれてくる書類に目を通し、判子を押したり、指示を出していく。美咲にとっては馴染みのない言葉ばかりで、全く意味がわからなかった。

 やがて、やはり馴染みのない、変わった模様の書かれた紙が束で運ばれてきた。エレニオルは「ふう」と息を吐いてから、一枚一枚に手をかざして瞳を閉じる。
 一枚にかかる時間こそ、そこまで長くはなかったものの、紙の束全てに手をかざし終える頃、エレニオルはひと目でわかるほど疲弊していた。

「エレニオルさん。それは何をするものなんですか?」
「ああ…この紙は水の浄化を簡易的に行うものなんだ。兄さんの言葉を借りると、言葉は悪いけど毒を浄化するために、僕が浄化のエネルギーを入れているんだよ。これを水の入った容器に貼っておくと、穢れの進行を遅らせたり、軽い穢れなら浄化することが出来るんだ」

 苦しそうに呼吸をしながらエレニオルが笑う。

「そう…なんですか」
「君が…あ、いや。なんでもない。今はこの話はやめよう。ずっとそこに座っていて疲れただろうから、休憩にしようか」

 エレニオルは椅子から立ち上がり、うんと伸びをした。凝り固まった腰や肩が、パキッと小さな音を立てる。
 美咲とエレニオルは、聖域の外に出て、近くの川へ向かった。そこは美咲がはじめてエレニオルとミスティオに出会った場所だ。
 エレニオルは一本の大きな木の下に座り、目を閉じた。そよそよと風が吹く。

「……」
「……」

 特に会話をすることもなく、二人はただ水のせせらぎと風のささやきに身を委ねていた。

「僕はね、美咲」

 ふいにエレニオルが口を開いた。

「この国がとても好きなんだ。穏やかで…優しく…、信心深く思慮深い。…けれど今は水の穢れのせいで、シュルムプカに住む人々の性質まで僅かに変わり始めている。ああ、皆が皆ではないよ。でも…争い、競い、奪い合うような事が一部で確かに起きているんだ。それがとても悲しくてね」

 美咲は言葉に詰まった。こんな時、どのような返答をすれば良いのか、わからないからだ。

「僕がマクシェーンに助けられ、おババ様と出会い、神官になれたことにはとても感謝しているよ。生まれつき、浄化の能力を持っていたことも。小さな頃は、それを恨んだこともあったけどね」
「どうして恨んだんですか?」
「後でおババ様と会った時にでも話そうかと思っていたけど…いい機会だから話そうか。浄化の能力は時として悪用されることもある。浄化と穢れは紙一重でね、浄化する時は清らかなイメージを持って水や紙にエネルギーを入れるんだけど…悪意を持ってエネルギーを入れれば、たちまち穢れた水の出来上がり。それを利用しようとする大人が、過去にはいてね。穢れた水は、人を死に至らしめることも可能だから。人の体の殆どは水で出来ている。血もそう、血を穢せば…人は死ぬ」
「そんな…」
「僕と、僕の両親、そして兄さんはそんな大人たちから僕を必死に守ってくれたよ」
「…聖域の方は助けてくださらなかったんですか?」
「僕が子供の頃は、まだシュルムプカの水はそこまで穢れていなかったんだ。ここ数年だよ、一気に穢れが進行したのは。浄化する強い能力はマクシェーンが持っていたし、悪用されぬためには自衛するより他にはなかったんだ」

 エレニオルの生い立ちに、美咲は多少の同情を覚えた。

「マクシェーンだけは僕を守ってくれようとして、聖域に入れてくれようとしたけれど…当時のマクシェーンの位はまだ高くなくて、彼が唯一僕に出来たこと、それがフレムランカのおババ様の元へ僕たちを逃がすことだったんだ」
「そうだったんですか…。おババ様、占い師の方なんですよね。イオちゃんから聞きました」
「フレムランカとシュルムプカの国境にある森でひっそりと暮らしていてね。名前を聞いても教えてくれなかったから、おババ様と呼んでいるんだけど…。おババ様は、僕の能力の一部を封印したんだ」
「え?」

 そう言って、エレニオルは美咲に左手を差し出す。美咲は首を傾げた。その手は特に何か損傷や怪我があるわけでもなく、強いて言えば、男性にしてはやや細い指、といったところだろうか。

「見ていて」

 エレニオルは目を閉じ、左手をかざした。途端に、左手の甲に模様が浮かび上がる。当然、美咲が初めて見る模様だった。

「ッ!」

 エレニオルはすぐに目を開き、左手を右手でゆっくりさすった。

「右手に浄化を行う能力が、左手に穢れを与える能力が宿っていてね。左手が穢れを生まないように処置してくれたんだ」
「よくわからないんですけど…凄い方なんですね、おババ様は」

 緊張の面持ちだったエレニオルは、息を吐きながら笑った。

「ははっ、凄いは凄いんだけど、本当に厳しい人でね。僕は兄さんと違って体を動かすことが苦手だから、護身術を教えてもらっている時もなかなか上手くできなくて、何度もおババ様からげんこつを食らったよ。子供ながらに納得出来なかったなあ。運動神経なんて生まれつきのセンスもあるのにって思ってたよ。言えなかったけど」
「ふふっ、私も運動音痴なので気持ち、わかりますよ。私はいつも先生に怒られてばかりで…。小さな頃なんて、みんなはとっくに帰ってるのに、鉄棒で逆上がりが出来ないからって、出来るまでは帰しません! って言われたんです。もう、泣きながら練習しましたよ」
「あはは、逆上がりか。僕も苦手だよ。他にも…」

 二人は運動音痴エピソードに花を咲かせ、ようやく笑顔を灯らせた。
 和やかな雰囲気のまま休憩が終わり、あっという間にフレムランカへ向かう日を迎えた。

「エレニオルさま、忘れ物はございませんか」

 マクシェーンが心配そうに尋ねる。エレニオルは服のポケットに手を当て、ぽんぽんと軽く叩いていく。

「うん…、護身用の短剣も持ったし…おババ様へのお土産も持ったし…」
「ミスティオさまは如何ですかな」
「ガキじゃねーんだぞ、マクシェーン。…忘れもんはねえよ」
「イオ。エレニオルさま、ミスティオさま、そして神子さまにご無礼のないように。その御体、命に変えてもお守りするのだ、いいな」

 立ち会わせたデニルがイオの肩を押さえながら言う。イオは面倒くさそうにハイハイと返事をした。

「イオ、携帯食と非常食は十分に持ったか? お前は腹が減ると途端に動きが鈍くなる。多めに用意していきなさい」
「ちょっと、パパ! 私が食いしん坊みたいなこと、クレッツォの前で言わないでよ!」
「クレッツォ?」

 ミスティオが聞き慣れない名前に首を傾げた。

「そうなの、実はね…ごにょごにょ…、凄く強くてね…コソコソ…かっこいいの! きゃーっ!」

 内緒話をしているつもりなのだろうが、地声が大きいため全て筒抜けだった。チラチラと視線を送る先に立っていたのは、涼し気な目元でポーカーフェイスな男。彼が、先日イオの話していた側仕えの男性なのだろうと美咲は理解した。

「お前に惚れられる男を心底同情するぜ」
「は? あっ、やきもち妬いてるの? モテないもんね~、ミスティオは」
「…は?」
「あーダメダメ、私ミスティオみたいなチャラチャラしたのはタイプじゃないのよね」
「奇遇だな、俺もお前みたいなじゃじゃ馬はタイプじゃない。むしろ嫌いな方だ」
「なんですって?!」
「あ?!」

 相変わらずくだらない言い争いをするミスティオとイオを横目に、エレニオルと美咲は出立の挨拶をマクシェーンと他の神官と交わしていた。

「大体、お前俺より足太いんじゃねえの? 本当に女か怪しいもんだ」
「はんっ、あんたの鍛え方が足りないだけでしょ!」
「ふ・た・り・と・も! 行くよ!」

 エレニオルの大きな声に、ミスティオとイオは口論をやめたが、未だ交わる視線に火花が散っている。
 果たして何事もなく辿り着けるのだろうか。一抹の不安を抱きながら、美咲達は聖域を後にした。

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