第二話 エクトレア・マザーの元へ

 選定の日から二日後、十日の約束の時間はあっという間に訪れた。
 普段は二度寝、三度寝と寝坊をするファティマだが、リナが今までにないくらい必死に起こしたお陰で、なんとか迎えが来る時間には支度を済ませることができた。
 何度も大きく口を開けて欠伸をしては、目尻に滲んだ涙を拭う。
 そんなことを何度か繰り返していると、やがて部屋のチャイムが鳴った。

「は、はい」

 玄関のドアを開けたのは、緊張から震えが止まらない、ファティマの母・リナだ。
 ファティマは飲みかけだったジュースを一気に飲み干すと、玄関に向かう。一体どんな人が迎えに来たのだろうか、と顔を覗かせた。

「あっ」

 そこに立っていたのは、よく見知った顔だった。

「ベルナール!」
「よ」

 互いに片手を上げて挨拶を交わしたのは、ファティマの幼馴染。ベルナール・ステイだ。紺色の髪と金色の目が印象的な好青年である。
 ファティマの叔父であり、現在はプリュセリアの警護隊隊長である、アスカ・オオスギに憧れ、幼少期から当時は平隊員だったアスカにファティマと共に訓練を受けた。アスカが昇進していく中で、訓練をする時間がなくなって、ファティマも他の事に興味が出て訓練をやめて尚、鍛錬を重ねた努力家だ。
 体格はアスカと違い、どちらかというと細身だが、身体能力は良い方だろう。

「なんでベルナールが来るの?」
「なんでって…俺が来ちゃマズイのかよ」
「そういうわけじゃないけど、サポーターっていうからもっと上位の警護隊員が来るのかと思ってた」
「万年平隊員で悪かったな。どういう基準で選ばれたのかは知らねぇけど…。あと一応俺以外にもいるぜ」

 言われて初めて、ファティマはベルナールの隣に立っていた警護隊員に目をやる。初めて見る警護隊員だったが、叔父のアスカが警護隊隊長とはいえ、普段は警護隊員と関わりのないファティマだ。見知っている顔のほうが少ない。
 警護隊員は緊張の面持ちでファティマと挨拶を交わし、迎えに来た旨を伝えた。

「ファティマ、エクトレア・マザーにお会いになるのよね? そうよね、ベルナールくん?」
「おばさん、お久しぶりです。はい、エクトレア・マザーの部屋に繋がるエレベーターまで案内せよと仰せつかっていますから」
「はあ…心配だわ…ファティマ、絶対、絶対に失礼のないようにね?」
「大丈夫だって。お母さんは心配性なんだから」
「ファティマだから心配してるのよ…ああ、何か失礼をして侮辱罪で一族全て処されたりしないかしら…」

 それを聞いたベルナールは、変わらぬリナの心配性っぷりに苦笑して、口を開く。

「大丈夫じゃないですか? …多分」
「た、多分?」
「いや、俺もエクトレア・マザーに直接会ったことはないのでわかりませんけど」
「ベルナールくんも会ったことがないの? どんな方なのかしら…」

 リナは心配する気持ちを抑えきれず、忙しなく体を揺らしている。
 エクトレアは通常、一般の塔民の前に姿を見せることはない。何か連絡がある際は、警護隊員を通じて各家庭のコンピューターにメッセージを送付し、自らが表に出ることはなかった。

「アスカおじさ…アスカ隊長から何もお聞きになっていないのですか?」
「え、ええ。それとなく聞いたことはあるのだけれど、アスカさんは…」
「口が堅いっていうか、真面目っていうか、教えてくれないんだよねー」

 ファティマがぷうと頬を膨らませて言った。ベルナールは、アスカ隊長らしい、と笑う。

「さて、そろそろ向かわないとな。行くぞ、ファティマ」
「はーい。じゃ、行ってくるね、お母さん」
「絶対に無礼のないようにね!」
「はいはい」
「はいは一回でしょう」
「はーい!」

 まだ何か言いたげなリナに背を向け、ファティマとベルナールたち警護隊員は、エクトレアが待つ塔の最上階へと向かうエレベーターに向かって歩き始めた。

 一方その頃、リュンプ家には、警護隊隊長のアスカ・オオスギがマナを迎えに訪れていた。
 マナとエミルは、互いの顔をじっと見つめるだけで、ずっと口を噤んだままだ。
 この母子にはわかっていた。これが「母と子」として過ごす、最後の瞬間であることが。何か話さなければ。しかし、何を話せばいい? どう声をかければいい? 考えれば考えるほど、互いを見つめることしかできず、喉がつっかえて言葉が出てこない。
 やがて、アスカが無情にも「参りましょう」と告げる。

「…いってきます、ママ」
「…いってらっしゃい…マナ」

 マナは前後左右を警護隊員に囲まれ、ゆっくりと歩き出す。
 これでは、振り返って母であるエミルの顔を見ることも出来ない。一歩、また一歩と距離が開いていく。

「マナ!」

 背後でエミルの大きな声が聞こえた。マナが初めて聞くほどの、エミルの大声だった。
 前を歩いていたアスカが少し歩くスピードを緩める。

「私はずっと、ずっとマナの事を愛しているから…、だから…」
「……」

 背後でエミルの嗚咽が聞こえた。マナはグッと唇を強く噛む。

「‥行って」
「はい」

 アスカが再び歩き出す。
 もし、マナが返事をしてしまったら。振り返ってしまったら。ギリギリの所で抑えている感情が溢れ出そうだった。マザーになるのは嫌だと、子供のように泣いてしまう自分が想像できたのだ。
 しかし、そんな願いが叶わないことは、塔に住む民なら誰もが知っているルール。
 故に、誰もが興味と好奇心を抱き、同時に恐れおののくのだ。

 警護隊員とマナの間に会話はなく、ただ規則正しい複数の足音だけが周囲に響く。
 四方を塞ぐ隊員が、身長の高い男性ばかりなのは、周囲からマナの姿を隠すためだろうか。事実、警護隊員が壁となって、マナは好奇の目に晒されることもなく、エクトレアの元に一歩ずつ歩みを進めている。

(でも…これじゃまるで連行ね…)

 前を歩くアスカの背中を、キッとにらみつける。その鋭い視線がアスカに届いているのかはわからないし、アスカに苛立ちをぶつけるのはお門違いだとも理解していたが、睨むことだけがマナのせめてもの抵抗だった。
 ふと、口の中に錆の味が広がっていることに気がつく。どうやら、先程からずっと唇を噛み締めたままだったようだ。
 唇に傷がついたら、リップメイクに影響が出る…。そんなことを考えるのは、現実逃避だろうか。

 どこをどのように歩いたのはもわからぬほど、歩いた。
 プリュセリア塔内の階層移動は、高速エレベーターを用いて行うが、どのように乗り継いだのかも、もう覚えていない。
 疲れた。そんなことをぼんやりと考えているうちに、アスカが足を止める。

「これより先、マナ様はこちらのカードキーをかざしてお入りください」
「…これは?」

 アスカが差し出した一枚のカードキー。一見は何の変哲もないただのカードキーだ。

「我々上級隊員は脳にロック解除のチップを埋めております故、このゲートを通過出来ますが、まだチップ未挿入のマナ様はカードキーがなければ通過することが出来ません。これは今回のみ有効の通行証のようなものです」

 アスカが説明を終えると同時に、少し体をずらす。そこで初めて、マナは目の前に小さなゲートがあることに気付いた。
 そのゲートは人が一人かろうじて通れる程度の、本当に小さなものであった。
 小さなゲートには、大きな文字で「通行禁止」と書かれている。何気なく、マナはゲートに書かれた文字を見た。

「許可なく通過を試みた場合…、迎撃する…? 随分物騒ね」
「まずはこちらの隊員が通過しますので、続いてマナ様、ゲートを通過して頂けますか?」

 尋ねるような言い方ではあるが、マナに拒否権などない。
 横を歩いていた警護隊員がゲートの前に立つ。

『チップを認証致しました』

 無機質な機械音声が警護隊員の名前と登録番号を読み上げ、ゲートが開いた。

「さ、マナ様」
「え、ええ…」

 マナが恐る恐るカードキーをセンサーに近づける。

『特別通過許可証を認証しました。このカードキーは、このゲートで一回の利用制限があります』

 アスカに目で促され、マナはゆっくりとゲートを潜る。何か大きな音が鳴らないかと少し不安であったが、通過の際も通過してからも特に音は鳴らなかった。
 再び歩く。中は迷路のような構造で、四方を囲まれているマナには尚更どこを歩いているのかもわからない。
 やがて、見慣れぬデザインの高速エレベーターに辿り着いた。

「これは…」
「エクトレア・マザーがいらっしゃる階層に繋がる、唯一の高速エレベーターです。こちらも先程のカードキーで通過出来ますので、カードキーをご利用ください」

 言われた通り、カードキーをかざすと、先程と同じ音声が流れた。エレベーターのドアが開き、皆で乗り込む。ドアが閉まり急上昇すると、マナは通常の高速エレベーターでは感じたことのないめまいを覚えた。
 エクトレア・マザーの元へ繋がるエレベーターというだけあり、何か特殊な構造なのだろうか。警護隊員が涼しい顔をしている様子から、チップを埋めているか、或いは慣れの問題なのかもしれない。

 気持ち悪い浮遊感のあと、ドアがスッと開いた。
 エクトレア・マザーがいるというだけあって、豪奢な調度品や絵画などが飾られている…とマナは思っていたが、実際は一切の装飾品がない、ただ冷たい壁と床が何処までも続いているだけだった。
 進んでいくと、マナ達の足音だけがコツコツと響き、妙な不気味さを醸し出している。
 いくつかの扉を通り過ぎたが、どれもこれも同じような造りで、先程も通ったのではと何度も錯覚した。それでも、マナはただアスカ達に着いていくより他にはない。
 いい加減、疲れた…─思わず愚痴が零れそうになった頃、アスカがようやく足を止めた。

「警護隊隊長、アスカ・オオスギ。マナ・リュンプ様をお連れいたしました」
「お入りなさい」

 抑揚のない、機械のような声が返ってきた。
 プシュウと小さな音を立てて、ドアが開く。相変わらずアスカを先頭に、マナと他の警護隊員は中に入る。ふいに、アスカたち警護隊員がマナから離れたことで、部屋の様子が顕になった。

「マナ、待っていました。よく来ましたね」
「!」

 生まれてはじめてエクトレアの声を聞いたマナの心が、何かで叩かれたように震える。
 抑揚がなく、感情らしいものも感じない声色であったが、妙な高揚感を覚えたのだ。それは、ある意味でこのプリュセリアにおいて絶対的な存在である、エクトレアに名前を呼ばれたからだろう。

 そして、マナはエクトレアから目が離せなかった。
 身長はやや高く、恐らくマナと同じくらいだろう。
 ゴーグルのようなもので目元を覆っているため、表情はよくわからないが、無表情に思える。
 ふわりとウェービーな長い金髪が印象的だ。
 背筋はピンと伸びており、立っているだけで強い存在感を放っている。しかしその姿はさながら「人形」や「マネキン」のようである。
 圧倒的な存在感。しかし、それと同時に恐怖心が湧いた。

「こちらへ」

 アスカがマナを部屋の中に置かれた椅子へマナを座らせる。
 何名かが座っているのを目視しながら、とある少女に目が留まった。
 銀髪で赤い目の、マナとそう変わらないであろう年頃の少女だ。

(染めてるのかしら…それとも地毛? 珍しい…)

 少女も同じようにマナを見ていた。視線は交差したが、互いにこれと言って何かアクションを起こすわけでもない。
 最前列に着席すると、皆が座っていることを確認したエクトレアが口を開く。

「では早速ですが説明を始めさせて頂きます。まず、サポーターから。この塔は私が常に同期して管理はしていますが、その細部まで完璧に掌握することは出来ません。ボットを利用しての管理も同様です。サポーターが行う一番の仕事は、塔細部の管理です。ボットの管理、塔内部の損傷・修理箇所の早期把握と管理、速やかな警護隊員・ボットの手配。塔内の温度、湿度調整など塔内部のメンテナンスを始めとし、塔民同士の犯罪と犯罪者の管理、警護隊員との連携を行い、犯罪の抑制、制圧なども業務に含まれます」

 淡々と説明が続けられていく。

「基本的に二十四時間勤務し対応する必要がありますが、サポーターは複数が所属する職位ですので、能力などによる指名がない限りは、対応出来る方が対応してください」
「えっ、お休みないんですか」

 マナの後ろで声が上がった。振り返って確認すると、先程の銀髪の少女が声の主のようだ。
 皆の視線が集まり、バツが悪いのか、少女は笑ってその場を誤魔化した。

「対応を行う必要がない時間を休みとしてください。対応の順番やスケジュールはサポーター同士で話し合い決めるものとします。次に、マザーについてですが」

 マナは緊張で強く手のひらを握りしめていた。

「次期マザーには、まず体内にチップを挿入する手術から受けて頂きます。この部屋へ来るために通過したゲートなどを、特別なカードキーなしでも通過できるように行う施術です。サポーターにも順次行いますが、次期マザーとなる者が優先です。詳しい内容はこの場では話しません。施術があることだけ理解して頂ければ結構です」

 少し部屋の中がざわついた。アスカが大きな咳払いをすると、再び部屋の中は静まり返る。

「…サポーターと違うところは、原則として家族との面談が出来なくなることです。家族が結婚、病気など、いかなる理由があっても家族との面会は許可が出ません」
「あ、あの…エクトレア・マザー。質問、よろしいでしょうか」

 マナがエクトレアの様子を伺いながら口を開く。気づけば喉がカラカラで、随分と声が出しにくい。

「どうぞ」
「私はママ…母と二人暮らしで、母は病で働くことが出来ません。食事の支度なども私が行ってきました。その場合でも、面会は出来ないのでしょうか?」
「出来ません。家庭環境は考慮し、貴方のお母様は警護隊員から保護を受けることが出来ます。身辺警護、生活費の支給や、日常生活、病院への通院、全てにおいて警護隊が全面的にサポートを行うので心配することは何もありません」
「……」

 無情にもきっぱりと言い切るエクトレアに、塔のルールを思い出したマナは俯き、また唇を噛んだ。
 エクトレアは話を続け、次期マザーは専用の部屋で過ごす必要があることや、二十四時間警護隊員の警備がつくことなどを説明した。事実上の「日常からの隔離」である。

「それってプライバシーがないってことですか?」

 唐突に声を上げたのは、やはり先程の銀髪の少女だった。
 また振り返って彼女を見ると、不思議そうに首を傾げている。

「ええ、仰る通りです。マザーとは塔のために全てを捧げる存在。長い時を生きるマザーにとって、家族、恋人、友人といった存在は、いずれ必ず別れが来るもの。マザーとして、人として幼いうちに、それらと切り離す必要があるのです」
「…エクトレア・マザー。少し、よろしいでしょうか…」
「どうぞ、アスカ」

 苦虫を噛み潰したような顔をしたアスカが、銀髪の少女の元へずかずかと近づく。そして、軽くパシッとその頭を叩いた。

「いったぁ!! アスカおじさん、何するの!」
「少しはじっとしていられんのか、ファティマ!」

 アスカが銀髪の少女のことを「ファティマ」と呼んだことで、マナは彼女の名前を知った。
 決して強く叩かれたわけではないが、アスカに文句を垂れるファティマに、マナは不快感を顕にする。

(わざわざ確認しなくてもいいわよ…ちょっと考えたらわかるじゃない。何なの、あの子)

 マナの睨みつける視線が、ファティマと合う。ファティマは照れくさそうに笑ってみせたが、マナは鼻を鳴らすと腕を組み顔を背けた。

 マナ、そしてサポーターたちの脳へチップが埋められる施術の日程が告げられ、今後長い付き合いになる上位警護隊員が自己紹介を済ませ、その場は解散となった。

 ただ一人、マナを除いて。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!