第三話 懐かしい香り

 サポーターの面々は、上位警護隊員に付き添われ、各々の家へ帰った。
マナだけは次期マザーという立場上、帰宅が許されないため、専用に用意された部屋に通され、隅に置かれた大きなベッドに腰掛ける。
目だけを動かし、部屋の中の隅々を見渡す。所々につなぎ目がある、白く艶のある壁。
しんと静まり返った部屋にいると、まるでこの大きな塔に自分一人だけが存在するような錯覚を起こす。
現マザーであるエクトレアも、この部屋で「次期マザー」としての孤独な時を過ごしたのだろうか。そんなことを考えながら、そのまま後ろに倒れて天井を見た。

(何もないわね…)

通常のフロアでは、天井に空がある。勿論それは本物ではなく、スクリーンに映し出された映像だ。しかし例え偽物であっても、塔民は本物の空を知らない。それらしい物があるだけでも、一日における時の移ろいを体感できるのだ。
マナも同じ気持ちだった。故に、ただの白い天井は味気なくつまらないものに思える。

「…まるで牢屋ね……」
「あら、マナさま。牢屋ではなく城塞、ですわ」
「ッ、ママ?」

ふと香った懐かしい香りに、マナは勢いよく起き上がった。
いつの間に入ったのか上級警護隊員と思われる女性が立っている。背は高く、凡そ170センチほどはあるだろう。ブロンドの髪は丁寧に纏められ、白い肌に赤い紅がよく似合っている。
柔な笑みは女性らしさを感じると同時に、強い意思を感じられた。

「申し訳ございません、お母様ではありませんの」
「…別に、ちょっと懐かしい感じがしただけ。あなたがママじゃないことくらい見たらわかる。…もうママに会えないことも」
「…マナ様。先も申し上げた通り、この部屋は”牢屋”ではなく”強固な城塞”です。あらゆるソーサラーの攻撃からも、警護隊員が使う武器からも、マナ様をお守りすることが出来ます。ここで過ごされるということは、お母様にとっても安心できる事なのではないでしょうか」

物は言いようだとマナは感じた。

「でも、あなたみたいにここへ出入りする警護隊員がいるじゃない」
「ご心配は不要ですわ。我々は塔やマザーに対して攻撃な思考を持てないよう、制御されていますから」
「制御?」
「攻撃的な感情、思想を抱いた場合、脳に挿入したチップが体の機能を制限します」
「制限…制限されるとどうなるの?」
「ええと…これまで塔やエクトレア・マザーに攻撃的な感情、思想を抱いた隊員は把握している限り一人もおりませんので、実際に見たわけではないのですが…チップが作動すると身体能力の制限、それから強制的に”無”の状態になると説明されています。無、それは感情の喪失です」

マナは「無」という言葉に背筋を凍らせた。
先程のエクトレアを思い出す。抑揚のない声、淡々とした口調。それも感情の喪失の一種だろう。今のマナには普通の人間らしい、喜怒哀楽の感情がある。それが徐々に失われるのかもしれないということに、マナはこの上ない恐怖を覚えた。

「無の状態が一生続くわけではありませんから、マナ様が心配なさる必要はございませんよ。研修では、身体能力の制限を受けていると仮定した隊員に、他の警護隊員が速やかに然るべき対応を指導されております。その後の対応はサポーターの方々にお任せするようですね」
「サポーターね…あの変な子には頼みたくないわ」

先程アスカがファティマと呼んでいた少女のことを思い出す。
一際目立つ容姿の持ち主であったが、いちいち反応も発言も大いに目立つ存在であった。当然、マナにとって「悪い方に」だ。

「自己紹介が遅れてしまい、申し訳ございません。私はソフィア=ブランシュと申します。上位警護隊員として、マナ様の護衛と世話係を仰せつかりました」
「…マナ=リュンプよ。知ってると思うけど」
「よろしくお願いいたします、マナ様」

再びふわりと懐かしい香りがマナを包む。
ソフィアの柔和な笑顔だろうか、声質だろうか。彼女との会話はまだぎこちないが、どこか安心感を覚えるものであった。

「変な子…とおっしゃいますと、ファティマ様のことでしょうか?」
「そうね、そんな名前だったわ」
「ファティマ様はアスカ大隊長の姪に当たるお方ですが、確かに少々変わった性格のお嬢様だと伺っております」

ソフィアはアスカから聞いた過去のエピソードを思い出し、口元に手を当ててクスクスと笑う。

「ですが、アスカ大隊長、ファティマ様のお生まれはとても名高い名家でいらっしゃいます」
「それが何なの? 家の生まれなんて関係ないわ。あの空気の読めなさには驚きを隠せないわね。どんな風に育てたら、あんな風になるのかしら」
「…きっと、愛情深くお育てになられたことと思いますわ。愛する子供ですから…」

ソフィアは微笑みを浮かべたままだったが、僅かな翳りが見えた。

「…あなたは結婚しているの?」
「あ、はい。数年前に結婚いたしました。でも子供は…まだ、なんです」
「そう」

伏せられたソフィアの視線を見て、マナはそれ以上の追求をやめた。
静けさが再び部屋を包む。部屋に母以外の人がいると寝にくいな、とマナは苛立ちを覚えた。

「二分の遅刻申し訳ございません! ティサ=メリア、他警護隊員、只今到着いたしました」

スッとドアが開いたかと思うと、カツカツと慌ただしい複数の靴音が部屋に響いた。
全員警護隊員のようだが、中には上級警護隊員の印のない者もいる。
ティサと名乗った少女も例外ではないが、彼女を筆頭に数名の警護隊員がマナの前で敬礼した。ティサは勝ち気そうな翠の目に、ブロンドヘアが特徴的だ。見た所、年齢はマナよりやや下に見えた。

「遅刻は褒められませんが…幸い、スジューもまだですよ。良かったですわね」
「ソフィアさん! はあ…よかったぁ」
「あなたは遅刻せずここに来た。そのように致しましょう」
「ありがとうございます」

ティサはホッと胸をなでおろすと、一呼吸置いてからマナに自己紹介をした。
やはり年齢はマナより年下だったが、今回の仕事が認められれば上級警護隊員に昇格するらしい。他にも同じ境遇の隊員はいるらしいが、皆の自己紹介が終わると、ティサはずいっと体を前にのめり出した。

「あ、あの! マナ様。以前、ファッション誌でインタビュー受けてましたよね?」

ティサは目をキラキラと輝かせながら、ファッション誌の名前を出した。マナも忘れていたことだが、そういえばそんな雑誌にインタビューを受けたことがある。
スラリとした手足でモデル体型のマナは、度々ファッション誌のインタビューを受けたことがあり、マナの母は掲載された雑誌のデータを予約購入して何度も何度も見返していたことを思い出す。
「自慢の娘なの」と周囲に吹聴もしていた事も、既に遠いものに感じる。

「あっ、そのピアスも素敵ですね。どこのだろう…」

ティサはマナのファッションが気になるらしく、あらゆる角度からピアスを眺めては、それらしいブランド名を上げていく。

「あー! わかりました!」
「…ほう、何がわかったのか聞かせてもらおうか」
「あら…」

上級警護隊員のソフィアですら気配を察知出来ない男の隊員がいつの間にか部屋におり、ティサは男の存在に気付くと顔色を変え、乗り出していた身を引っ込めた。

「遅刻ですよ、スジュー」
「アスカ大隊長とエクトレア・マザーに指示を仰いでいた。マナ様、約束の時間を大幅に遅れてしまったことをお詫びいたします」
「…別に、あなた達が決めた時間なんて私は知らないわ」
「申し遅れました。私はスジュー。マナ様の護衛隊における隊長をアスカ大隊長から仰せつかっております。マナ様の身辺警護、必要なもの、全てご用意いたしますので何なりとお申し付け下さい」
「そう」

マナの青い瞳は、スジューの黒い瞳をまっすぐに見据えた。

「あなた、東の民?」

東の民という呼称は、プリュセリアの塔がそびえ立つ場所より、遥か東の方角から来た一族たちの総称だ。ファーストネーム、ファミリーネームから、アスカとファティマもそうであることが容易に推測できる。
癖のある性格の持ち主が強い一方で、非常に優秀な人物が多いのも東の民の特徴だ。故に、その呼称に差別的な意味も意識も持つものはいないが、やはりどこか変わっている性格の持ち主が多いのも事実である。

「…はい。ワン・スジューと申します。とはいえ、もう東の民の血も薄いかと思われますが」
「でしょうね。この塔にいる限りは」
「今も濃い東の民の血を有するのは、オオスギ家を始めとし、二、三家の名家しか残っていないのではないでしょうか」
「オオスギ家…名家、ね」
「あの家は特別です。結婚の際に重要視するのも、相手の血統です。それが…あ、いえ」

苛立ちを隠せない様子のマナを見て、スジューは言葉を飲み込み謝罪の言葉を述べた。
結婚に相手の血統を重要視するなど、マナにとってはどうでもいいことだ。ファティマは誰であれ、子供をお腹に宿すことが出来る。一方で、マナはもう恋人の存在すら許されないのだ。

「ねえ、スジュー、ソフィア。ママに会えないのはわかったのよ、朝、覚悟もしてきたわ。でも…手紙もダメなのかしら」

スジューとソフィアは顔を見合わせる。マナは先程、エクトレアからいかなる手段を用いても、家族、友人、恋人との接触を禁じられたはずだ。それでも聞いてくることは、内密に、ということだろう。
スジューはゆっくり首を横に振った。

「申し訳ございませんが…次期マザーというお立場ゆえ、例え相手がお母君であっても、手紙を出す、コンピューターでメッセージを送る等は禁止されております」
「…そう。はあ、疲れたからもう休みたいの。出ていって」
「マナ様をお部屋で一人にすることはエクトレア・マザーから禁じられているため、ソフィアを残しますがよろしいでしょうか?」
「勝手にして」

マナはスジュー達に背中を向けたまま、ベッドへ横になり、毛布を腰までかけて目を閉じた。随分と軽い毛布だが、かなり暖かい。悔しいが、寝具にしてもマナが使っていたものより質が良い。

「では我々は部屋の外で警護の任に就かせて頂きます。おやすみなさいませ」
「失礼いたします、マナ様。あの…手紙はダメでも、必要なものがあったら何でも仰って下さいね」

スジューとティサの言葉にマナが返事をすることはなく、また二人もそれを気にする様子は見せず、部屋は再びマナとソフィアの二人きりになった。
背中越しに椅子を引く音が聞こえたことから、ソフィアは椅子に座ったのだろう。

(今日は本当に…色々あったわね…。でも色々あるのはこれからで…ああ、もう! 嫌になる)

毛布を頭まで被り、殻に閉じこもるようにしてマナはぎゅっと目を閉じた。眠れるような気はしない。ただ、いつまで「疲れること」が出来るのか。いつまで「眠ること」が出来るのかも、わからない。今は疲労感に身を任せることにした。
マナの部屋の前で一列に並ぶ警護隊員の一人。男性隊員がティサにそっと耳打ちした。

「なあ、ソフィアさんの香水ってあんな匂いだっけ?」
「それ私も気になったの。いきなり趣味変わったのかなあって」
「前の香水の方が良いよな、今日のも悪くねぇけど…」
「旦那さんの趣味、とか?」
「ええーっ…」

ぎろり、とスジューに睨まれた二人は、咳払いをして姿勢を正した。

一方、オオスギ家では、アスカを含めたオオスギ家の面々と、ファティマの幼馴染であるベルナールが揃って夕食をとっていた。

「しかし何度食っても美味いな、肉は…」

プリュセリアでは人工的な日光が造られているため、植物の栽培は出来る。だが塔の中ではスペースが限られており、省スペースで大量に栽培出来、かつ多数の調理パターンのある食べ物─豆のようなもの─が主に食されているが、肉がないわけではない。
培養肉以外の自然の肉や一部の調味料は非常に高価で、上級警護隊員であろうがあまり口にする機会はなく、当然、階級としては平のベルナールが購入できるものでもないが、ファティマの家はプリュセリアでも有数の名家で資産もあるため、本物の肉を食べる機会は他の塔民に比べると多い。ベルナールも、そのおこぼれに与っている形だ。
今日もファティマがサポーターに選ばれたお祝いという名目で、テーブルの上にはリナが腕によりをかけた豪勢な料理が並んでいる。

「はっはっはー! 私に感謝するのだな、ベルナールくんよ」
「ぐう…悔しいが感謝しかねえ」
「…ファティマ、そういう言葉は自分でお金を稼いでお肉を買ってから言いなさいね」

リナが苦笑いをしながら、おかわりをベルナールとアスカに取り分けた。ファティマは「むぐぐ…」と口答え出来ないようだが、暗い顔をしたのはベルナールだった。
リナは、彼の気に障ることを言ってしまっただろうかと、慌ててベルナールの名を呼ぶ。

「いえ、違うんです。サーシャにも食わせてやりたいな、って…思って」
「あ……」

場の空気がファティマを除いて重たくなり、ハッとしたベルナールが慌てて笑顔を繕う。

「サーシャが目を覚ますまでに、俺が出世して、肉買って食わせてやればいいんですよね!」
「ええ、そうね。サーシャちゃんはどんな味付けが好きなのかしら? 調味料は何でも使ってちょうだいね」
「ありがとうございます、おばさん」
「サーシャちゃん、あれから変わりないの?」

ファティマはこれまた高級品であるアイスクリームを冷凍庫から取り出しながら尋ねた。

「ああ。今の治療が精一杯だって。悪くもならない、が、良くもならない…って言ってたな」
「…そっか。アイスあるよ、食べる? チョコとバニラあるけど」
「そうだな…少し貰えるか? 俺、チョコ」
「いやいやチョコは私のだし。ベルナールはバニラね」
「…ありがとよ」

果たして質問の意味はあったのだろうかと思いつつ、有り難くバニラアイスを受け取った。
皆で食卓を囲み、アイスカップに残った僅かなアイスが溶ける頃。ソファに寝転がり、そのだらしない姿をシュウとアスカに叱られていたファティマに、ベルナールが声をかける。

「なあ」
「あーあー! お説教はお父さんとアスカおじさんだけで十分だよ。はあ~うるさいうるさい」

ファティマはクッションに顔を埋めて、足をばたつかせた。ここまでダラケられては、もうシュウもアスカも何も言うことは出来ない。

「違う違う。また今度、余裕のある時にサーシャのこと診てくれないか?」
「勿論だよ。私もサーシャちゃんに会いたいしね」
「ん、頼むな。じゃ俺はこれで。おじさん、おばさん、隊長。ごちそうさまでした」
「またいつでも来てね」
「自分の家だと思っていつでも来なさい」
「私もお暇するとしよう。休める時に休まねば。シュウ兄さん、義姉さん、ごちそうさまでした」

それぞれ挨拶を交わすと、ベルナールは帰路に、アスカは警護隊員が仮眠を取る宿舎へと向かった。

サーシャはベルナールの義妹だ。母子家庭だったベルナールの母が再婚した男の連れ子が、サーシャである。ベルナールとは年齢が離れているが、ベルナールを兄として慕い、義母にあたるベルナールの母にもよく懐き、ファティマとも仲が良かった。

プリュセリアにはここ数年で起きた大きな事件として「B-C051事件」というものがある。BはボットのB、CはクリーニングのC、051は事件を起こしたボットの型番だ。警備用ボットではなく、清掃用ボットが起こした暴走事件は、平和なプリュセリアの塔を震撼させた。

「C051が休日で賑わうショッピングモールで、買い物中の親子を攻撃。父と義母は八歳の娘を庇い死亡。怪我人は多数出たが死者はこの二名だけだった。その遺体は見たものに大きなショックを与え、目の前で親を亡くした娘(八歳)は精神病院へ搬送。未だ意識戻らず。…確かに、お父さんっ子のサーシャちゃんには辛い事件だったけど…」

ファティマはソファの上でタブレットを持ち、左手にお菓子を抱えながら「B-C051事件」の記事に再度目を通していた。ボットが暴走する確率は極めて低いが、誰かが作ったものである以上、絶対に暴走しないとは言い切れない。
これ以降、型番051のボットは全て廃棄され、暴走を起こしたボットはサポーターの手に渡った。原因の究明が進められたが、ハッキリとした理由はわからなかったようだ。
しかし同型番を全て廃棄したためか、それ以降は大きな暴走事故は起きていないのが現在の状況である。

「……」
「ファティマ! 女の子がそんな格好であぐらをかくなぞみっともない。やめなさい」
「パンツ履いてるよ。キャミソールも着てるし」
「はあ…リナ、リナ! ファティマの部屋着を用意してやってくれ」

夕食の片付けをしていたリナは返事をすると、手をタオルで拭いてファティマの部屋に入って引き出しを開けた。大分前に買ったものだが、ファティマがというよりリナが気に入っている可愛いクマがプリントされた部屋着を取り出しすと、嬉しそうにリビングへ向かう。

「…ん~! はあっ。なんか疲れちゃった。…ベルナールにチョコアイス譲ってあげたらよかったかな」

タブレットのスリープボタンを押すと、ソファの背に立て掛けて目を閉じた。あっという間に夢の中へ落ちていったファティマに呆れながらも、愛おしい我が子の寝姿にリナとシュウは顔を綻ばせた。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!