カテゴリー: プリュセリアの塔

第三話 懐かしい香り

 サポーターの面々は、上位警護隊員に付き添われ、各々の家へ帰った。
マナだけは次期マザーという立場上、帰宅が許されないため、専用に用意された部屋に通され、隅に置かれた大きなベッドに腰掛ける。
目だけを動かし、部屋の中の隅々を見渡す。所々につなぎ目がある、白く艶のある壁。
しんと静まり返った部屋にいると、まるでこの大きな塔に自分一人だけが存在するような錯覚を起こす。
現マザーであるエクトレアも、この部屋で「次期マザー」としての孤独な時を過ごしたのだろうか。そんなことを考えながら、そのまま後ろに倒れて天井を見た。

(何もないわね…)

通常のフロアでは、天井に空がある。勿論それは本物ではなく、スクリーンに映し出された映像だ。しかし例え偽物であっても、塔民は本物の空を知らない。それらしい物があるだけでも、一日における時の移ろいを体感できるのだ。
マナも同じ気持ちだった。故に、ただの白い天井は味気なくつまらないものに思える。

「…まるで牢屋ね……」
「あら、マナさま。牢屋ではなく城塞、ですわ」
「ッ、ママ?」

ふと香った懐かしい香りに、マナは勢いよく起き上がった。
いつの間に入ったのか上級警護隊員と思われる女性が立っている。背は高く、凡そ170センチほどはあるだろう。ブロンドの髪は丁寧に纏められ、白い肌に赤い紅がよく似合っている。
柔な笑みは女性らしさを感じると同時に、強い意思を感じられた。

「申し訳ございません、お母様ではありませんの」
「…別に、ちょっと懐かしい感じがしただけ。あなたがママじゃないことくらい見たらわかる。…もうママに会えないことも」
「…マナ様。先も申し上げた通り、この部屋は”牢屋”ではなく”強固な城塞”です。あらゆるソーサラーの攻撃からも、警護隊員が使う武器からも、マナ様をお守りすることが出来ます。ここで過ごされるということは、お母様にとっても安心できる事なのではないでしょうか」

物は言いようだとマナは感じた。

「でも、あなたみたいにここへ出入りする警護隊員がいるじゃない」
「ご心配は不要ですわ。我々は塔やマザーに対して攻撃な思考を持てないよう、制御されていますから」
「制御?」
「攻撃的な感情、思想を抱いた場合、脳に挿入したチップが体の機能を制限します」
「制限…制限されるとどうなるの?」
「ええと…これまで塔やエクトレア・マザーに攻撃的な感情、思想を抱いた隊員は把握している限り一人もおりませんので、実際に見たわけではないのですが…チップが作動すると身体能力の制限、それから強制的に”無”の状態になると説明されています。無、それは感情の喪失です」

マナは「無」という言葉に背筋を凍らせた。
先程のエクトレアを思い出す。抑揚のない声、淡々とした口調。それも感情の喪失の一種だろう。今のマナには普通の人間らしい、喜怒哀楽の感情がある。それが徐々に失われるのかもしれないということに、マナはこの上ない恐怖を覚えた。

「無の状態が一生続くわけではありませんから、マナ様が心配なさる必要はございませんよ。研修では、身体能力の制限を受けていると仮定した隊員に、他の警護隊員が速やかに然るべき対応を指導されております。その後の対応はサポーターの方々にお任せするようですね」
「サポーターね…あの変な子には頼みたくないわ」

先程アスカがファティマと呼んでいた少女のことを思い出す。
一際目立つ容姿の持ち主であったが、いちいち反応も発言も大いに目立つ存在であった。当然、マナにとって「悪い方に」だ。

「自己紹介が遅れてしまい、申し訳ございません。私はソフィア=ブランシュと申します。上位警護隊員として、マナ様の護衛と世話係を仰せつかりました」
「…マナ=リュンプよ。知ってると思うけど」
「よろしくお願いいたします、マナ様」

再びふわりと懐かしい香りがマナを包む。
ソフィアの柔和な笑顔だろうか、声質だろうか。彼女との会話はまだぎこちないが、どこか安心感を覚えるものであった。

「変な子…とおっしゃいますと、ファティマ様のことでしょうか?」
「そうね、そんな名前だったわ」
「ファティマ様はアスカ大隊長の姪に当たるお方ですが、確かに少々変わった性格のお嬢様だと伺っております」

ソフィアはアスカから聞いた過去のエピソードを思い出し、口元に手を当ててクスクスと笑う。

「ですが、アスカ大隊長、ファティマ様のお生まれはとても名高い名家でいらっしゃいます」
「それが何なの? 家の生まれなんて関係ないわ。あの空気の読めなさには驚きを隠せないわね。どんな風に育てたら、あんな風になるのかしら」
「…きっと、愛情深くお育てになられたことと思いますわ。愛する子供ですから…」

ソフィアは微笑みを浮かべたままだったが、僅かな翳りが見えた。

「…あなたは結婚しているの?」
「あ、はい。数年前に結婚いたしました。でも子供は…まだ、なんです」
「そう」

伏せられたソフィアの視線を見て、マナはそれ以上の追求をやめた。
静けさが再び部屋を包む。部屋に母以外の人がいると寝にくいな、とマナは苛立ちを覚えた。

「二分の遅刻申し訳ございません! ティサ=メリア、他警護隊員、只今到着いたしました」

スッとドアが開いたかと思うと、カツカツと慌ただしい複数の靴音が部屋に響いた。
全員警護隊員のようだが、中には上級警護隊員の印のない者もいる。
ティサと名乗った少女も例外ではないが、彼女を筆頭に数名の警護隊員がマナの前で敬礼した。ティサは勝ち気そうな翠の目に、ブロンドヘアが特徴的だ。見た所、年齢はマナよりやや下に見えた。

「遅刻は褒められませんが…幸い、スジューもまだですよ。良かったですわね」
「ソフィアさん! はあ…よかったぁ」
「あなたは遅刻せずここに来た。そのように致しましょう」
「ありがとうございます」

ティサはホッと胸をなでおろすと、一呼吸置いてからマナに自己紹介をした。
やはり年齢はマナより年下だったが、今回の仕事が認められれば上級警護隊員に昇格するらしい。他にも同じ境遇の隊員はいるらしいが、皆の自己紹介が終わると、ティサはずいっと体を前にのめり出した。

「あ、あの! マナ様。以前、ファッション誌でインタビュー受けてましたよね?」

ティサは目をキラキラと輝かせながら、ファッション誌の名前を出した。マナも忘れていたことだが、そういえばそんな雑誌にインタビューを受けたことがある。
スラリとした手足でモデル体型のマナは、度々ファッション誌のインタビューを受けたことがあり、マナの母は掲載された雑誌のデータを予約購入して何度も何度も見返していたことを思い出す。
「自慢の娘なの」と周囲に吹聴もしていた事も、既に遠いものに感じる。

「あっ、そのピアスも素敵ですね。どこのだろう…」

ティサはマナのファッションが気になるらしく、あらゆる角度からピアスを眺めては、それらしいブランド名を上げていく。

「あー! わかりました!」
「…ほう、何がわかったのか聞かせてもらおうか」
「あら…」

上級警護隊員のソフィアですら気配を察知出来ない男の隊員がいつの間にか部屋におり、ティサは男の存在に気付くと顔色を変え、乗り出していた身を引っ込めた。

「遅刻ですよ、スジュー」
「アスカ大隊長とエクトレア・マザーに指示を仰いでいた。マナ様、約束の時間を大幅に遅れてしまったことをお詫びいたします」
「…別に、あなた達が決めた時間なんて私は知らないわ」
「申し遅れました。私はスジュー。マナ様の護衛隊における隊長をアスカ大隊長から仰せつかっております。マナ様の身辺警護、必要なもの、全てご用意いたしますので何なりとお申し付け下さい」
「そう」

マナの青い瞳は、スジューの黒い瞳をまっすぐに見据えた。

「あなた、東の民?」

東の民という呼称は、プリュセリアの塔がそびえ立つ場所より、遥か東の方角から来た一族たちの総称だ。ファーストネーム、ファミリーネームから、アスカとファティマもそうであることが容易に推測できる。
癖のある性格の持ち主が強い一方で、非常に優秀な人物が多いのも東の民の特徴だ。故に、その呼称に差別的な意味も意識も持つものはいないが、やはりどこか変わっている性格の持ち主が多いのも事実である。

「…はい。ワン・スジューと申します。とはいえ、もう東の民の血も薄いかと思われますが」
「でしょうね。この塔にいる限りは」
「今も濃い東の民の血を有するのは、オオスギ家を始めとし、二、三家の名家しか残っていないのではないでしょうか」
「オオスギ家…名家、ね」
「あの家は特別です。結婚の際に重要視するのも、相手の血統です。それが…あ、いえ」

苛立ちを隠せない様子のマナを見て、スジューは言葉を飲み込み謝罪の言葉を述べた。
結婚に相手の血統を重要視するなど、マナにとってはどうでもいいことだ。ファティマは誰であれ、子供をお腹に宿すことが出来る。一方で、マナはもう恋人の存在すら許されないのだ。

「ねえ、スジュー、ソフィア。ママに会えないのはわかったのよ、朝、覚悟もしてきたわ。でも…手紙もダメなのかしら」

スジューとソフィアは顔を見合わせる。マナは先程、エクトレアからいかなる手段を用いても、家族、友人、恋人との接触を禁じられたはずだ。それでも聞いてくることは、内密に、ということだろう。
スジューはゆっくり首を横に振った。

「申し訳ございませんが…次期マザーというお立場ゆえ、例え相手がお母君であっても、手紙を出す、コンピューターでメッセージを送る等は禁止されております」
「…そう。はあ、疲れたからもう休みたいの。出ていって」
「マナ様をお部屋で一人にすることはエクトレア・マザーから禁じられているため、ソフィアを残しますがよろしいでしょうか?」
「勝手にして」

マナはスジュー達に背中を向けたまま、ベッドへ横になり、毛布を腰までかけて目を閉じた。随分と軽い毛布だが、かなり暖かい。悔しいが、寝具にしてもマナが使っていたものより質が良い。

「では我々は部屋の外で警護の任に就かせて頂きます。おやすみなさいませ」
「失礼いたします、マナ様。あの…手紙はダメでも、必要なものがあったら何でも仰って下さいね」

スジューとティサの言葉にマナが返事をすることはなく、また二人もそれを気にする様子は見せず、部屋は再びマナとソフィアの二人きりになった。
背中越しに椅子を引く音が聞こえたことから、ソフィアは椅子に座ったのだろう。

(今日は本当に…色々あったわね…。でも色々あるのはこれからで…ああ、もう! 嫌になる)

毛布を頭まで被り、殻に閉じこもるようにしてマナはぎゅっと目を閉じた。眠れるような気はしない。ただ、いつまで「疲れること」が出来るのか。いつまで「眠ること」が出来るのかも、わからない。今は疲労感に身を任せることにした。
マナの部屋の前で一列に並ぶ警護隊員の一人。男性隊員がティサにそっと耳打ちした。

「なあ、ソフィアさんの香水ってあんな匂いだっけ?」
「それ私も気になったの。いきなり趣味変わったのかなあって」
「前の香水の方が良いよな、今日のも悪くねぇけど…」
「旦那さんの趣味、とか?」
「ええーっ…」

ぎろり、とスジューに睨まれた二人は、咳払いをして姿勢を正した。

一方、オオスギ家では、アスカを含めたオオスギ家の面々と、ファティマの幼馴染であるベルナールが揃って夕食をとっていた。

「しかし何度食っても美味いな、肉は…」

プリュセリアでは人工的な日光が造られているため、植物の栽培は出来る。だが塔の中ではスペースが限られており、省スペースで大量に栽培出来、かつ多数の調理パターンのある食べ物─豆のようなもの─が主に食されているが、肉がないわけではない。
培養肉以外の自然の肉や一部の調味料は非常に高価で、上級警護隊員であろうがあまり口にする機会はなく、当然、階級としては平のベルナールが購入できるものでもないが、ファティマの家はプリュセリアでも有数の名家で資産もあるため、本物の肉を食べる機会は他の塔民に比べると多い。ベルナールも、そのおこぼれに与っている形だ。
今日もファティマがサポーターに選ばれたお祝いという名目で、テーブルの上にはリナが腕によりをかけた豪勢な料理が並んでいる。

「はっはっはー! 私に感謝するのだな、ベルナールくんよ」
「ぐう…悔しいが感謝しかねえ」
「…ファティマ、そういう言葉は自分でお金を稼いでお肉を買ってから言いなさいね」

リナが苦笑いをしながら、おかわりをベルナールとアスカに取り分けた。ファティマは「むぐぐ…」と口答え出来ないようだが、暗い顔をしたのはベルナールだった。
リナは、彼の気に障ることを言ってしまっただろうかと、慌ててベルナールの名を呼ぶ。

「いえ、違うんです。サーシャにも食わせてやりたいな、って…思って」
「あ……」

場の空気がファティマを除いて重たくなり、ハッとしたベルナールが慌てて笑顔を繕う。

「サーシャが目を覚ますまでに、俺が出世して、肉買って食わせてやればいいんですよね!」
「ええ、そうね。サーシャちゃんはどんな味付けが好きなのかしら? 調味料は何でも使ってちょうだいね」
「ありがとうございます、おばさん」
「サーシャちゃん、あれから変わりないの?」

ファティマはこれまた高級品であるアイスクリームを冷凍庫から取り出しながら尋ねた。

「ああ。今の治療が精一杯だって。悪くもならない、が、良くもならない…って言ってたな」
「…そっか。アイスあるよ、食べる? チョコとバニラあるけど」
「そうだな…少し貰えるか? 俺、チョコ」
「いやいやチョコは私のだし。ベルナールはバニラね」
「…ありがとよ」

果たして質問の意味はあったのだろうかと思いつつ、有り難くバニラアイスを受け取った。
皆で食卓を囲み、アイスカップに残った僅かなアイスが溶ける頃。ソファに寝転がり、そのだらしない姿をシュウとアスカに叱られていたファティマに、ベルナールが声をかける。

「なあ」
「あーあー! お説教はお父さんとアスカおじさんだけで十分だよ。はあ~うるさいうるさい」

ファティマはクッションに顔を埋めて、足をばたつかせた。ここまでダラケられては、もうシュウもアスカも何も言うことは出来ない。

「違う違う。また今度、余裕のある時にサーシャのこと診てくれないか?」
「勿論だよ。私もサーシャちゃんに会いたいしね」
「ん、頼むな。じゃ俺はこれで。おじさん、おばさん、隊長。ごちそうさまでした」
「またいつでも来てね」
「自分の家だと思っていつでも来なさい」
「私もお暇するとしよう。休める時に休まねば。シュウ兄さん、義姉さん、ごちそうさまでした」

それぞれ挨拶を交わすと、ベルナールは帰路に、アスカは警護隊員が仮眠を取る宿舎へと向かった。

サーシャはベルナールの義妹だ。母子家庭だったベルナールの母が再婚した男の連れ子が、サーシャである。ベルナールとは年齢が離れているが、ベルナールを兄として慕い、義母にあたるベルナールの母にもよく懐き、ファティマとも仲が良かった。

プリュセリアにはここ数年で起きた大きな事件として「B-C051事件」というものがある。BはボットのB、CはクリーニングのC、051は事件を起こしたボットの型番だ。警備用ボットではなく、清掃用ボットが起こした暴走事件は、平和なプリュセリアの塔を震撼させた。

「C051が休日で賑わうショッピングモールで、買い物中の親子を攻撃。父と義母は八歳の娘を庇い死亡。怪我人は多数出たが死者はこの二名だけだった。その遺体は見たものに大きなショックを与え、目の前で親を亡くした娘(八歳)は精神病院へ搬送。未だ意識戻らず。…確かに、お父さんっ子のサーシャちゃんには辛い事件だったけど…」

ファティマはソファの上でタブレットを持ち、左手にお菓子を抱えながら「B-C051事件」の記事に再度目を通していた。ボットが暴走する確率は極めて低いが、誰かが作ったものである以上、絶対に暴走しないとは言い切れない。
これ以降、型番051のボットは全て廃棄され、暴走を起こしたボットはサポーターの手に渡った。原因の究明が進められたが、ハッキリとした理由はわからなかったようだ。
しかし同型番を全て廃棄したためか、それ以降は大きな暴走事故は起きていないのが現在の状況である。

「……」
「ファティマ! 女の子がそんな格好であぐらをかくなぞみっともない。やめなさい」
「パンツ履いてるよ。キャミソールも着てるし」
「はあ…リナ、リナ! ファティマの部屋着を用意してやってくれ」

夕食の片付けをしていたリナは返事をすると、手をタオルで拭いてファティマの部屋に入って引き出しを開けた。大分前に買ったものだが、ファティマがというよりリナが気に入っている可愛いクマがプリントされた部屋着を取り出しすと、嬉しそうにリビングへ向かう。

「…ん~! はあっ。なんか疲れちゃった。…ベルナールにチョコアイス譲ってあげたらよかったかな」

タブレットのスリープボタンを押すと、ソファの背に立て掛けて目を閉じた。あっという間に夢の中へ落ちていったファティマに呆れながらも、愛おしい我が子の寝姿にリナとシュウは顔を綻ばせた。

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第二話 エクトレア・マザーの元へ

 選定の日から二日後、十日の約束の時間はあっという間に訪れた。
 普段は二度寝、三度寝と寝坊をするファティマだが、リナが今までにないくらい必死に起こしたお陰で、なんとか迎えが来る時間には支度を済ませることができた。
 何度も大きく口を開けて欠伸をしては、目尻に滲んだ涙を拭う。
 そんなことを何度か繰り返していると、やがて部屋のチャイムが鳴った。

「は、はい」

 玄関のドアを開けたのは、緊張から震えが止まらない、ファティマの母・リナだ。
 ファティマは飲みかけだったジュースを一気に飲み干すと、玄関に向かう。一体どんな人が迎えに来たのだろうか、と顔を覗かせた。

「あっ」

 そこに立っていたのは、よく見知った顔だった。

「ベルナール!」
「よ」

 互いに片手を上げて挨拶を交わしたのは、ファティマの幼馴染。ベルナール・ステイだ。紺色の髪と金色の目が印象的な好青年である。
 ファティマの叔父であり、現在はプリュセリアの警護隊隊長である、アスカ・オオスギに憧れ、幼少期から当時は平隊員だったアスカにファティマと共に訓練を受けた。アスカが昇進していく中で、訓練をする時間がなくなって、ファティマも他の事に興味が出て訓練をやめて尚、鍛錬を重ねた努力家だ。
 体格はアスカと違い、どちらかというと細身だが、身体能力は良い方だろう。

「なんでベルナールが来るの?」
「なんでって…俺が来ちゃマズイのかよ」
「そういうわけじゃないけど、サポーターっていうからもっと上位の警護隊員が来るのかと思ってた」
「万年平隊員で悪かったな。どういう基準で選ばれたのかは知らねぇけど…。あと一応俺以外にもいるぜ」

 言われて初めて、ファティマはベルナールの隣に立っていた警護隊員に目をやる。初めて見る警護隊員だったが、叔父のアスカが警護隊隊長とはいえ、普段は警護隊員と関わりのないファティマだ。見知っている顔のほうが少ない。
 警護隊員は緊張の面持ちでファティマと挨拶を交わし、迎えに来た旨を伝えた。

「ファティマ、エクトレア・マザーにお会いになるのよね? そうよね、ベルナールくん?」
「おばさん、お久しぶりです。はい、エクトレア・マザーの部屋に繋がるエレベーターまで案内せよと仰せつかっていますから」
「はあ…心配だわ…ファティマ、絶対、絶対に失礼のないようにね?」
「大丈夫だって。お母さんは心配性なんだから」
「ファティマだから心配してるのよ…ああ、何か失礼をして侮辱罪で一族全て処されたりしないかしら…」

 それを聞いたベルナールは、変わらぬリナの心配性っぷりに苦笑して、口を開く。

「大丈夫じゃないですか? …多分」
「た、多分?」
「いや、俺もエクトレア・マザーに直接会ったことはないのでわかりませんけど」
「ベルナールくんも会ったことがないの? どんな方なのかしら…」

 リナは心配する気持ちを抑えきれず、忙しなく体を揺らしている。
 エクトレアは通常、一般の塔民の前に姿を見せることはない。何か連絡がある際は、警護隊員を通じて各家庭のコンピューターにメッセージを送付し、自らが表に出ることはなかった。

「アスカおじさ…アスカ隊長から何もお聞きになっていないのですか?」
「え、ええ。それとなく聞いたことはあるのだけれど、アスカさんは…」
「口が堅いっていうか、真面目っていうか、教えてくれないんだよねー」

 ファティマがぷうと頬を膨らませて言った。ベルナールは、アスカ隊長らしい、と笑う。

「さて、そろそろ向かわないとな。行くぞ、ファティマ」
「はーい。じゃ、行ってくるね、お母さん」
「絶対に無礼のないようにね!」
「はいはい」
「はいは一回でしょう」
「はーい!」

 まだ何か言いたげなリナに背を向け、ファティマとベルナールたち警護隊員は、エクトレアが待つ塔の最上階へと向かうエレベーターに向かって歩き始めた。

 一方その頃、リュンプ家には、警護隊隊長のアスカ・オオスギがマナを迎えに訪れていた。
 マナとエミルは、互いの顔をじっと見つめるだけで、ずっと口を噤んだままだ。
 この母子にはわかっていた。これが「母と子」として過ごす、最後の瞬間であることが。何か話さなければ。しかし、何を話せばいい? どう声をかければいい? 考えれば考えるほど、互いを見つめることしかできず、喉がつっかえて言葉が出てこない。
 やがて、アスカが無情にも「参りましょう」と告げる。

「…いってきます、ママ」
「…いってらっしゃい…マナ」

 マナは前後左右を警護隊員に囲まれ、ゆっくりと歩き出す。
 これでは、振り返って母であるエミルの顔を見ることも出来ない。一歩、また一歩と距離が開いていく。

「マナ!」

 背後でエミルの大きな声が聞こえた。マナが初めて聞くほどの、エミルの大声だった。
 前を歩いていたアスカが少し歩くスピードを緩める。

「私はずっと、ずっとマナの事を愛しているから…、だから…」
「……」

 背後でエミルの嗚咽が聞こえた。マナはグッと唇を強く噛む。

「‥行って」
「はい」

 アスカが再び歩き出す。
 もし、マナが返事をしてしまったら。振り返ってしまったら。ギリギリの所で抑えている感情が溢れ出そうだった。マザーになるのは嫌だと、子供のように泣いてしまう自分が想像できたのだ。
 しかし、そんな願いが叶わないことは、塔に住む民なら誰もが知っているルール。
 故に、誰もが興味と好奇心を抱き、同時に恐れおののくのだ。

 警護隊員とマナの間に会話はなく、ただ規則正しい複数の足音だけが周囲に響く。
 四方を塞ぐ隊員が、身長の高い男性ばかりなのは、周囲からマナの姿を隠すためだろうか。事実、警護隊員が壁となって、マナは好奇の目に晒されることもなく、エクトレアの元に一歩ずつ歩みを進めている。

(でも…これじゃまるで連行ね…)

 前を歩くアスカの背中を、キッとにらみつける。その鋭い視線がアスカに届いているのかはわからないし、アスカに苛立ちをぶつけるのはお門違いだとも理解していたが、睨むことだけがマナのせめてもの抵抗だった。
 ふと、口の中に錆の味が広がっていることに気がつく。どうやら、先程からずっと唇を噛み締めたままだったようだ。
 唇に傷がついたら、リップメイクに影響が出る…。そんなことを考えるのは、現実逃避だろうか。

 どこをどのように歩いたのはもわからぬほど、歩いた。
 プリュセリア塔内の階層移動は、高速エレベーターを用いて行うが、どのように乗り継いだのかも、もう覚えていない。
 疲れた。そんなことをぼんやりと考えているうちに、アスカが足を止める。

「これより先、マナ様はこちらのカードキーをかざしてお入りください」
「…これは?」

 アスカが差し出した一枚のカードキー。一見は何の変哲もないただのカードキーだ。

「我々上級隊員は脳にロック解除のチップを埋めております故、このゲートを通過出来ますが、まだチップ未挿入のマナ様はカードキーがなければ通過することが出来ません。これは今回のみ有効の通行証のようなものです」

 アスカが説明を終えると同時に、少し体をずらす。そこで初めて、マナは目の前に小さなゲートがあることに気付いた。
 そのゲートは人が一人かろうじて通れる程度の、本当に小さなものであった。
 小さなゲートには、大きな文字で「通行禁止」と書かれている。何気なく、マナはゲートに書かれた文字を見た。

「許可なく通過を試みた場合…、迎撃する…? 随分物騒ね」
「まずはこちらの隊員が通過しますので、続いてマナ様、ゲートを通過して頂けますか?」

 尋ねるような言い方ではあるが、マナに拒否権などない。
 横を歩いていた警護隊員がゲートの前に立つ。

『チップを認証致しました』

 無機質な機械音声が警護隊員の名前と登録番号を読み上げ、ゲートが開いた。

「さ、マナ様」
「え、ええ…」

 マナが恐る恐るカードキーをセンサーに近づける。

『特別通過許可証を認証しました。このカードキーは、このゲートで一回の利用制限があります』

 アスカに目で促され、マナはゆっくりとゲートを潜る。何か大きな音が鳴らないかと少し不安であったが、通過の際も通過してからも特に音は鳴らなかった。
 再び歩く。中は迷路のような構造で、四方を囲まれているマナには尚更どこを歩いているのかもわからない。
 やがて、見慣れぬデザインの高速エレベーターに辿り着いた。

「これは…」
「エクトレア・マザーがいらっしゃる階層に繋がる、唯一の高速エレベーターです。こちらも先程のカードキーで通過出来ますので、カードキーをご利用ください」

 言われた通り、カードキーをかざすと、先程と同じ音声が流れた。エレベーターのドアが開き、皆で乗り込む。ドアが閉まり急上昇すると、マナは通常の高速エレベーターでは感じたことのないめまいを覚えた。
 エクトレア・マザーの元へ繋がるエレベーターというだけあり、何か特殊な構造なのだろうか。警護隊員が涼しい顔をしている様子から、チップを埋めているか、或いは慣れの問題なのかもしれない。

 気持ち悪い浮遊感のあと、ドアがスッと開いた。
 エクトレア・マザーがいるというだけあって、豪奢な調度品や絵画などが飾られている…とマナは思っていたが、実際は一切の装飾品がない、ただ冷たい壁と床が何処までも続いているだけだった。
 進んでいくと、マナ達の足音だけがコツコツと響き、妙な不気味さを醸し出している。
 いくつかの扉を通り過ぎたが、どれもこれも同じような造りで、先程も通ったのではと何度も錯覚した。それでも、マナはただアスカ達に着いていくより他にはない。
 いい加減、疲れた…─思わず愚痴が零れそうになった頃、アスカがようやく足を止めた。

「警護隊隊長、アスカ・オオスギ。マナ・リュンプ様をお連れいたしました」
「お入りなさい」

 抑揚のない、機械のような声が返ってきた。
 プシュウと小さな音を立てて、ドアが開く。相変わらずアスカを先頭に、マナと他の警護隊員は中に入る。ふいに、アスカたち警護隊員がマナから離れたことで、部屋の様子が顕になった。

「マナ、待っていました。よく来ましたね」
「!」

 生まれてはじめてエクトレアの声を聞いたマナの心が、何かで叩かれたように震える。
 抑揚がなく、感情らしいものも感じない声色であったが、妙な高揚感を覚えたのだ。それは、ある意味でこのプリュセリアにおいて絶対的な存在である、エクトレアに名前を呼ばれたからだろう。

 そして、マナはエクトレアから目が離せなかった。
 身長はやや高く、恐らくマナと同じくらいだろう。
 ゴーグルのようなもので目元を覆っているため、表情はよくわからないが、無表情に思える。
 ふわりとウェービーな長い金髪が印象的だ。
 背筋はピンと伸びており、立っているだけで強い存在感を放っている。しかしその姿はさながら「人形」や「マネキン」のようである。
 圧倒的な存在感。しかし、それと同時に恐怖心が湧いた。

「こちらへ」

 アスカがマナを部屋の中に置かれた椅子へマナを座らせる。
 何名かが座っているのを目視しながら、とある少女に目が留まった。
 銀髪で赤い目の、マナとそう変わらないであろう年頃の少女だ。

(染めてるのかしら…それとも地毛? 珍しい…)

 少女も同じようにマナを見ていた。視線は交差したが、互いにこれと言って何かアクションを起こすわけでもない。
 最前列に着席すると、皆が座っていることを確認したエクトレアが口を開く。

「では早速ですが説明を始めさせて頂きます。まず、サポーターから。この塔は私が常に同期して管理はしていますが、その細部まで完璧に掌握することは出来ません。ボットを利用しての管理も同様です。サポーターが行う一番の仕事は、塔細部の管理です。ボットの管理、塔内部の損傷・修理箇所の早期把握と管理、速やかな警護隊員・ボットの手配。塔内の温度、湿度調整など塔内部のメンテナンスを始めとし、塔民同士の犯罪と犯罪者の管理、警護隊員との連携を行い、犯罪の抑制、制圧なども業務に含まれます」

 淡々と説明が続けられていく。

「基本的に二十四時間勤務し対応する必要がありますが、サポーターは複数が所属する職位ですので、能力などによる指名がない限りは、対応出来る方が対応してください」
「えっ、お休みないんですか」

 マナの後ろで声が上がった。振り返って確認すると、先程の銀髪の少女が声の主のようだ。
 皆の視線が集まり、バツが悪いのか、少女は笑ってその場を誤魔化した。

「対応を行う必要がない時間を休みとしてください。対応の順番やスケジュールはサポーター同士で話し合い決めるものとします。次に、マザーについてですが」

 マナは緊張で強く手のひらを握りしめていた。

「次期マザーには、まず体内にチップを挿入する手術から受けて頂きます。この部屋へ来るために通過したゲートなどを、特別なカードキーなしでも通過できるように行う施術です。サポーターにも順次行いますが、次期マザーとなる者が優先です。詳しい内容はこの場では話しません。施術があることだけ理解して頂ければ結構です」

 少し部屋の中がざわついた。アスカが大きな咳払いをすると、再び部屋の中は静まり返る。

「…サポーターと違うところは、原則として家族との面談が出来なくなることです。家族が結婚、病気など、いかなる理由があっても家族との面会は許可が出ません」
「あ、あの…エクトレア・マザー。質問、よろしいでしょうか」

 マナがエクトレアの様子を伺いながら口を開く。気づけば喉がカラカラで、随分と声が出しにくい。

「どうぞ」
「私はママ…母と二人暮らしで、母は病で働くことが出来ません。食事の支度なども私が行ってきました。その場合でも、面会は出来ないのでしょうか?」
「出来ません。家庭環境は考慮し、貴方のお母様は警護隊員から保護を受けることが出来ます。身辺警護、生活費の支給や、日常生活、病院への通院、全てにおいて警護隊が全面的にサポートを行うので心配することは何もありません」
「……」

 無情にもきっぱりと言い切るエクトレアに、塔のルールを思い出したマナは俯き、また唇を噛んだ。
 エクトレアは話を続け、次期マザーは専用の部屋で過ごす必要があることや、二十四時間警護隊員の警備がつくことなどを説明した。事実上の「日常からの隔離」である。

「それってプライバシーがないってことですか?」

 唐突に声を上げたのは、やはり先程の銀髪の少女だった。
 また振り返って彼女を見ると、不思議そうに首を傾げている。

「ええ、仰る通りです。マザーとは塔のために全てを捧げる存在。長い時を生きるマザーにとって、家族、恋人、友人といった存在は、いずれ必ず別れが来るもの。マザーとして、人として幼いうちに、それらと切り離す必要があるのです」
「…エクトレア・マザー。少し、よろしいでしょうか…」
「どうぞ、アスカ」

 苦虫を噛み潰したような顔をしたアスカが、銀髪の少女の元へずかずかと近づく。そして、軽くパシッとその頭を叩いた。

「いったぁ!! アスカおじさん、何するの!」
「少しはじっとしていられんのか、ファティマ!」

 アスカが銀髪の少女のことを「ファティマ」と呼んだことで、マナは彼女の名前を知った。
 決して強く叩かれたわけではないが、アスカに文句を垂れるファティマに、マナは不快感を顕にする。

(わざわざ確認しなくてもいいわよ…ちょっと考えたらわかるじゃない。何なの、あの子)

 マナの睨みつける視線が、ファティマと合う。ファティマは照れくさそうに笑ってみせたが、マナは鼻を鳴らすと腕を組み顔を背けた。

 マナ、そしてサポーターたちの脳へチップが埋められる施術の日程が告げられ、今後長い付き合いになる上位警護隊員が自己紹介を済ませ、その場は解散となった。

 ただ一人、マナを除いて。

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第一話 選定の時

 プリュセリアは呪いの塔、囚われの我ら人類─
塔を管轄するマザーでさえ、塔の外に出ることは叶わない。故に、この塔のことをそう呼ぶ者もいる。

プリュセリアは癒ゆ揺り籠、慈愛に満ちた我らが母─
休むことなく塔を監視し、民を守るマザーの元で暮らす人々の気持ちは穏やかだ。故に、この塔のことをそう呼ぶ者もいる。

時の歯車はゆっくりと回りだし、選定のときは突如として訪れる。彼らに与えられし運命─さだめ─とは。

「ただいま、ママ。具合はどう? 今、温かい紅茶を淹れるから。美味しいって評判のクッキーも買ってきたのよ」
「ありがとう…マナ」

マナと呼ばれた女性はにっこりと微笑んでキッチンへ向かう。ベッドから起き上がり、肩にストールを巻き直したのは、マナの母親・エミルだ。コンコンと乾いた咳を出す口元を手で抑えながら、愛娘であるマナの後ろ姿を優しい眼差しで見つめた。
アッシュブラウンの艷やかでサラサラとした長い髪と、細身の体から伸びるスラッとした手足はまるでモデルのようで、そんなマナのことをエミルは自慢に思っていた。
眉目秀麗で働き者のマナは近所でも評判がよく、よく縁談を持ちかけられたものである。
そんなマナにも数年前に恋人が出来、仕事の他にデートで家を空けることも多くなった。けれど、帰る際には必ず連絡をし、エミルに何かしらお土産を買ってくる、心優しく母親思いの娘だ。

”選定”は多くの塔民が自分とは無関係だと考えている。
それは塔に住む民の人数が多いために確率が低いということよりも、周期的なものが関係していた。
塔に住む一般の民と、塔を管轄するマザーには通常接点がない。マザーと接する機会があるのは、塔の警護にあたっている一部の上級警護隊員たちと、マザーの手足となり塔の安全を守るサポーターの数名のみである。
更に例外的ではあるがもう一人、一定の周期で選ばれる”次期マザー”という存在だ。次期マザーはその名前の通り、次の代のマザーになる人物のことで、選定条件などはサポーターと同じく一切開示されていない。そもそも選定条件があるのかないのかすらも判明していない。

「ママ…、昼食はちゃんと食べたの?」
「…あまり、食欲がなくてね」
「もう…食べなきゃ駄目。でもいいわ、せめてクッキーを食べて、紅茶で体を温めてね」

マナが紅茶を茶こしに入れている時に、ピロリンと部屋に備え付けのコンピューターが通知音を発した。
塔という限られたスペースで生活するにあたり、各家族の「家」というものは特別な意味を持つ。
赤子として生まれた瞬間、手の甲に刻まれる印。刻印。家に備え付けのコンピューターは、その刻印がなければ起動することが出来ない。
コンピューターは一家に一台であったり、各々の部屋にあったり、家の広さなどにより様々だが、塔民への連絡事項の他、重要機密事項などの連絡にも使われるため、音が鳴ればすぐに確認するのが塔民の習わしであった。

「はい、ママ。紅茶とクッキー。凄く人気のお店でね、これが最後の一袋だったの。何か通知が来たから、ママ宛てか私宛てか見てみるわね」
「ええ。塔からの連絡かしら…」
「さあ…」

恋人からのメッセージならば良いのに、とマナは笑ってコンピューターに向かう。コンピューターの一部である、刻印を感知するための機械に手の甲をかざすと、ロックを解除した。どうやらメッセージはマナへ向けられたもののようだ。
「マナ・リュンプ様へ」と書かれたメッセージの隣には、塔からの重要な連絡である赤いマークが付いている。恋人からのメッセージでないことに、少し肩を落としながら、マナはメッセージを開いた。
エミルはマナから受け取った紅茶を口の中に含み、少し冷ましてからゆっくりと飲み込んだ。

「……嘘、でしょ…」
「…? どうしたの、マナ」
「…ママ…」

振り向いたマナの瞳には、激しい動揺の色が見て取れた。

・・
・・・・

一方その頃…─

「ファティマちゃん、お願い! 折角タイプCなんだからさ、ぱぱっとスペルで治しちゃってよ!」
「だーめ!! これくらい、消毒液と絆創膏で十分。はい、治療終わり!」

ファティマと呼ばれた、まだ幼さの残る顔立ちの女性は、塔を警護する隊員であることを示す、青を基調とした制服に身を包んだ男の足に絆創膏をバシッと貼り付けた。その右膝の布地が破れ、僅かに見える絆創膏を貼った肌には血が滲んでいた。

「むしろ絆創膏もいらないレベルなんだよ?」
「もー、頼むよお…俺、血とか苦手なんだよなあ…」
「そんなんじゃ警護隊員としてダメダメ。慣れて、ね!」

星のワンポイントが入ったオレンジのTシャツの裾からは、小さなヘソがちらりと見え、ショートパンツから伸びた足は程よく筋肉がついており、引き締まっている。髪の毛は、この塔には少ない銀色で、耳元で結った長いツインテールが幼さを強調していた。

「痛え!!」

聞けば、この警護隊員は塔民同士の取っ組み合いの喧嘩を仲裁しようとした際に怪我を負ったらしい。訓練不足ではないのか? でも、それも塔が平和な印だろうか、とファティマはため息を吐く。

「はーい。次の方どうぞ~! おじさんは帰ってね、処置は終わったから」
「そ、そんなあ…」
「あらあら、ファティマちゃんは手厳しいわね」

そこへ、のんびりとした優しい声が響く。中年の警護隊員は、勢いよく後ろを振り向いた。

「あ、ミアさん! おかえりなさい。だってこのおじさん、これっくらいの掠り傷にスペル使えって言うんだよ!」
「ミアちゃんからも言ってくれよ、傷があるの嫌なんだよぉ…」

ゆったりとした動作で入ってきたのは、ファティマがアルバイトするこの治療院の院長・ミアだ。赤茶の髪に、ピンクフレームの大きな眼鏡が特徴的な女性で、正確な年齢はわからないが、おそらく三十代前半といったところだろう。
しかし、豊富な知識と、微力ながらも扱えるタイプCの能力、そして何より笑顔を絶やさないおっとりとした優しい性格が患者に人気の医師だ。

この塔に住む人間は、ざっくり二つに分けられる。
”スペル”という特殊なエネルギーを用いた術を使うことが出来る者と、使えない者、だ。
スペルを使える物はソーサラーと呼ばれ、日常生活や塔の警護などで重宝されている。
そして、スペルを使える者たちも、主に三種類に分けられていた。
攻撃に長けたソーサラーはタイプA(type-Attack)。
防御に長けたソーサラーはタイプB(type-Barrier)。
回復や妨害に長けたソーサラーのことをタイプC(type-Cure&type-Control)。

後者になるほど扱いが難しく稀有な能力とされており、ファティマはタイプCのソーサラーだ。特異体質でもあり、強力な回復スペルを使うことが出来るほか、自身の怪我や病気の治癒力も恐ろしく高い。
ミアも、ファティマと同じタイプCのソーサラーではあるものの、ファティマほど強力なスペルを使うことはなく、自身の治癒力も標準よりやや高い程度だった。同じタイプであっても、強さや効果に違いがあるのだ。
ミアはタイプCといえど微力なタイプだが、その人柄と優しい笑顔を見に来るけが人や病人は多かった。

「うーん、ファティマちゃんの言うことも一理あるのよ? スペルだって、エネルギーを消耗するし…」
「う…ミアちゃんまで…」
「でも! 日頃から塔の安全と安心のために働いて下さっている隊員さんですものね。私が治療するから、安心してください」

ミアの言葉を聞いた警護隊員は大げさに喜びを表現すると、貼ったばかりの絆創膏を剥がし、傷をミアに見せた。
ミアが手をかざし意識を集中させると、小さな傷が徐々に小さくなっていく。完治という程ではなかったが、気にならない程度にはなったようで、警護隊員の男はミアの手を握って何度も感謝を述べた。

「患者さんは彼で最後よ。ファティマちゃん、これ、お給料ね」
「わー! ありがとう、ミアさん!」
「えええ、お給料ってことは…ファティマちゃんとはしばらくお別れかー、おじさん寂しいよ」

ファティマはこの治療院で働いているが、継続して務めているわけではない。
もともと働くことに対して面倒くさいと思っているところがあり、小遣いがなくなった時しか仕事に来ないのである。
そのことを両親に咎められたこともあるが、ファティマの意思が変わることはなかった。
ファティマの母・リナは、昼過ぎに起きてくるファティマのために食事を作るのが面倒だと言うと、自動で簡単な料理を作る機械を組み立て、ファティマがお菓子の残骸を散らかして困ると言うと、自動掃除ロボットを自作した。

「またお金がなくなったら来るわよ。ね、ファティマちゃん」
「んー、もっといい条件の治療院から声がかかればそこに行くかも!」
「あら、そんなこと言うなんてミア姉さん悲しいわ」
「うそうそ! ここの治療院の雰囲気好きだから、またここに…ん?」

ピロリン、とファティマの腕時計が鳴った。確認すると「新着メッセージあり」の文字が表示されている。しかも、赤いマーク付きだ。これは家に備え付けのコンピューターでなければ確認することが出来ない。

「何か通知が来たみたいだから、私は帰って確認するね。じゃあね、ミアさん、おじさん」
「またお願いね、ファティマちゃん」

駆け足で出ていくファティマの背中に向かって、ミアが手を振ると、ファティマもぶんぶんと手を振り返した。
給料は「すぐに使うから」という理由で手渡しとなっている。封筒越しにでもわかる厚みににんまりと笑みを浮かべた。
ファティマは明るい性格だが、友達という友達はおらず、異性の幼馴染がいるだけだ。家族は父と母。祖父母はすでに他界しているが、家は何代にも渡り引き継いで来た立派な家系である。
塔のマークが書かれたメッセージを早く見たい。逸る気持ちを抑えながら、ファティマは走って家路についた。

「あら、ファティマ…おかえりなさい。ねえ、聞いて聞いて! 今朝ね、お父さんったら…」
「今それどころじゃないから後でね!」

いつもの様子で父・シュウの話をしようとするリナの横を駆け抜け、ファティマは自室に入った。
ファティマの家は他の家と比べると大きい部類に入る。そのため、各々の部屋に専用のコンピューターが用意されていた。
早速、手の甲の刻印をかざすと「ロックを解除しました」という、無機質な機械の声が流れる。

「えーと、何々…ファティマ・オオスギさまへ…塔からの重要機密事項? え?」

ファティマは、はて、と首を傾げる。
塔のマークがついたメッセージ自体、受信したのは初めてだ。一体、なんの連絡だろうかと、メッセージのタイトルをタップし中身を確認した。

「ファティマ・オオスギさま…貴殿は新規サポーターに選出されました、って…新規サポーター?」

聞き慣れぬ単語に、ファティマは口元に指を当ててしばし思案した。そして、サポーターという言葉の意味を理解した瞬間、驚くほど大きな声を上げたのである。
悲鳴に似た声を聞きつけ、リナが慌ててファティマの部屋のドアをノックした。

「どうしたの? ファティマ! 何かあったの?」
「お母さん!」

勢いよくドアが開けられ、リナは思わず仰け反った。危うくドアが顔面にぶつかるところだ。

「今はまだ言えないんだけど、すごく大事なこと!」
「い、今は言えないって…、どうしたの、何か悪いことしてるんじゃないでしょうね?」
「私がそんなことするわけないでしょ!」
「そりゃ、勿論お母さんだってそう思ってるけど…」
「大事なことだから、しっかり確認したいの。はい、出ていった出ていった」

ファティマはリナの背中を押し、部屋の入口から遠ざけると、くれぐれも入らぬようにと念を押し、大きな音を立ててドアを閉めた。
コンピューターの前に座り、改めてメッセージを見る。

「ファティマ・オオスギさま。貴殿は新規サポーターに選出されました。つきましては、十日午後三時に警護隊員がお迎えに伺いますのでご同行をお願い致します…? 十日っていうと…明後日、かあ。私がサポーター…どんな仕事なんだろう。ああ、楽しみだなー!」

体全体で喜びを表現しながら、ファティマは何度もメッセージを読み直す。
十日、明後日、午後三時。心の中で何度も復唱し、サポーターという未知の存在に思いを馳せた。

「んー、一応髪の毛切っておこうかな」

特に理由もなく伸ばしていた髪だが、これを機に切るのも良いかもしれない。
しばらく行っていない美容室へ向かうため、ミアから受け取った先程の封筒を握りしめ、ファティマは慌ただしく家を出ていき、忙しないファティマの背中に向かい、リナは「後でお父さんの話聞いてね」と言葉を投げて見送った。

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