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第六話 一同は寄り道をすることなく、馬に無茶をさせ、急ぎシュルムプカへ戻った。到着すると、馬を馬舎で休ませ、沢山の水と食事を与えると、聖域内の大広間へ向かうポータルに乗り、移動を繰り返した。 「マクシェーン、今戻ったよ」 書類に目を通していたマクシェーンは顔を上げ、椅子から降りると、ゆったりとした足取りでエレニオルたちの元へ歩みを進める。 「おかえりなさいませ。して、如何でしたでしょうか」 エレニオルはおババ様がすでに亡くなっていたこと、代わりにアヤメという少女がおり、占いを頼んだ旨とその内容を伝えた。 「そうですか…もう旅立っていたとは。恐らくですがアヤメ殿の言う通り、早く出立されたほうがよろしいでしょう。可能であればすぐに…と言いたい所ですが、神子さまのお体が第一ですな」 そう話す美咲の顔色は悪く、とても大丈夫なようには見えない。しかし早く向かわなければ、ミレーネが移動してしまう可能性もある。そうなってしまうと、美咲が神子なのか、そうでないのかと確かめる術を失ってしまう。 美咲たちはほんの僅かの時間、体を休めると、先程とは違う馬に跨り、アヤメが記した海に向かって出立した。 「この辺りにテントを張って、明日の早朝から海を探索しよう」 これから訪れる闇の中での探索ではないことに安堵を覚えた美咲は胸をなでおろす。 パチパチと焚き火が音を鳴らす。夜の海は冷えるため、火の存在が随分とありがたく思える。聖域で大した休憩もとらなかったため、皆疲労の色が濃く出ており、腹も減っていた。 「…だめだな。この魚、穢れの影響を受けてやがる」 ミスティオは枝から魚をとると、焚き火の中に放り込んだ。一層強い腐臭が辺りを包んだ後は、パチパチという火の音だけが残る。 「…穢れた水は、海の生物にまで影響を与えるんですね…」 エレニオルはそこまで言って口をつぐんだ。何が続くのかは、皆察しが付く。 「はい、これ美咲の」 受け取った美咲は、小さな口を開けてパンを頬張った。 「…ごく。み、美咲食べる?」 唯一尋ねられなかったミスティオがすぐに突っ込みを入れた。 「なんでアンタに聞かなきゃいけないの。欲しけりゃ奪い取ってみな、ほーれほれ」 じゃあ、とイオは残りのパンを頬張る。「ん~!」と幸せそうに口を動かした後、ごくんと飲み込んでお腹を擦り、美咲はそれを見て柔に笑った。 夜はイオとミスティオの二人が交代で番に当たる。 ブクブクという音で美咲は目を覚ます。美咲は海の中にいた。どちらが上で、どちらが下なのかもわからない。 「ミスタリアに…」 ブクブクという音の中に、突如声が交じる。美咲は驚き、周りを見渡すが周囲には人の気配もない。 「ミスタリアに力を借りなさい」 その名称に聞き覚えはない。ここへ来てから耳にしたことがあっただろうかと考えだすと、次第に意識が混濁しはじめた。 「…ん?」 テントの外ではミスティオが焚き火に枝を焚べながら暖を取っていた。 「あの、いきなりですけど…ミスタリアって名称に心当たりはありますか?」 美咲の唐突な質問に、ミスティオはきょとんとしている。テントから出た美咲は、ミスティオの隣に座ると先程の夢の話を伝えた。 「ミスタリア…ミスタリアな…俺は聞いたことねえな。シュルムプカにそんな地名もねえし」 ゆったりとした動作で、エレニオルがテントから姿を現し、あくびを噛み殺しながら美咲の向かい側に腰掛け、手のひらを焚き火に向けた。 「ミスタリア…僕も聞いたことがないけど、美咲が夢で見たっていうくらいだし、託宣かもしれないね」 エレニオルはもう一度を噛み殺し、テントの中へ戻っていった。 「あ、あの。ミスティオさん。寒いですから…その、冷えないようにしてくださいね」 翌朝は風も雲もない快晴だった。 「人魚さんってことは…海の中に入るんですよね?」 荷物の最終チェックを行っていたエレニオルが顔をあげ「そうだよ」と笑った。 「…どうやって海の中に入るんですか? もしかして、泳ぐんですか…? 私、あの…泳げないんです」 美咲以外の三人の目が点になる。一瞬の間を置き、イオがプッと吹き出す。 「あはは! 全然心配いらないよ。海の中にはね、エレニオルの魔法を使って入るの」 またも火花を散らしそうな二人を横目に、エレニオルがこの後のことについて説明を始めた。 「大きな泡を作って、その中に一人ずつ入るんだ。道を歩くように足を動かせば、水の中を自由に歩き回れるよ」 ミスティオとイオは互いに鼻息をかけて顔を背けた。 「さて、ここからは時間との勝負だよ。水の中は移動できるけど、酸素はどんどん薄くなっていくからね。今から海に入って、酸素が保つのは三時間から四時間。その間にミレーネを探そう」 全員が無言で頷いた。 「とりあえずはアヤメが示した、ミレーネの居場所付近まで行こう。そこまでは速度を上げで自動で移動させるから…美咲は不安なら目を閉じておいで」 どういう動きをするのか予想は出来ないが、美咲は船酔いや車酔いをしやすい体質だ。ここはエレニオルの言う通り、目を閉じておいたほうが良いと判断し、そっと目を閉じた。 「ん? ね、ねえ! エレニオル、止めて!!」 高速で動いていたため、声がくぐもってしまいエレニオルの反応が遅れた。 「今、何か人みたいなのがいたの!」 考えている間にもどんどん酸素は薄くなっていく。 「…い、…た…たい!」 その時、僅かに声が聞こえて、イオは「しっ」と口に指を当てて、止まるよう合図を送った。 「マジでいたな…」 人魚は一同の存在に気付いていないようだ。 三人の周囲のどこにも、美咲の姿がなかったのだ。 |
カテゴリー: シュルムプカの神子
第五話 おババさま
| 第五話 おババさま
「腹が減っては戦は出来ぬって言うしね~」 イオはそう言いながら、先程渡されたばかりの、まだわずかに温かいパンを齧っていた。 「もう食ってんのかよ…」 その姿を見て、ミスティオが呆れたように言う。 「おババさまの家までは、馬でどのくらいかかるんですか?」 慣れぬ乗馬のため、必死に馬のたてがみにしがみつく美咲が問いかける。 「…兄さん、わかる?」 美咲は変わらずたてがみにしがみついている。その様子を見たエレニオルが、おかしそうに笑った。 「美咲、それだと馬が走りにくいから。僕にもたれかかるといいよ」 異性と乗馬するというシチュエーション自体、美咲にとっては初めてのことだ。異性として意識していない相手であろうとも、恥ずかしさから美咲は俯く。 気がつけば小川に立ち寄っているところであった。どうやら美咲は馬に揺られて眠っていたようで、今は馬の休憩中なのだそうだ。 「あ、美咲! ちょうどね、パンを温めてたところだよ。あとスープも」 寝ぼけ眼をこすりながら、美咲はイオに尋ねた。 「エレニオルは焚き火に使う枝を集めてくるって。ミスティオはもっと食べ物を探してくるみたいだよ」 イオは簡易的な調理道具でパンとスープを温めている。日が暮れ、少し肌寒い頃だ。パチパチと音を立てる焚き火の暖かさが気持ち良い。 「おババさまかぁ、二人から話を聞いたことしかないから、どんな人なのか凄く楽しみ!」 イオは口に一つ、右手に一つ、左手に一つ、パンを持ち必死に食らいついている。 「別にただの口うるさいババアだけどな」 今の彼の性格からは想像ができず、美咲はぷっと吹き出した。 「そういえば、土産は何持ってきたんだよ」 そう言って、エレニオルは懐から小さな瓶を取り出した。透明なガラスに入れられたそれは、一見水のようだが、エレニオルがそうだと言うのなら、中身は酒なのだろう。 「それならババアも喜ぶかもな。いい土産じゃねえか」 エレニオルとミスティオが沈黙した。イオが「はあ」と呆れてため息をつく。 「あんた、助けてもらった恩があるのにお土産もないなんて常識なさすぎじゃないの?」 食事を終えると、皆で協力してテントを設置した。 翌日も馬は駈ける。 「確かこの辺りだったね」 なんのことかわからず、美咲は首を傾げ辺りを見渡した。周囲は何も変わらず森が続くだけで、特段変わったこともなければ、建物らしきものもない。 「ここにおババさまの家へ通じる道が封じられているんだ」 美咲の心を読むかのようにエレニオルがにっこりと笑い、鬱蒼と茂る草の下に根を張った木を指差した。殆ど消えかかっているが、小さくバツのマークが有る。それは本当に僅かなマークで「ここに印がある」と言われても、よくよく見なければわからない程に薄く小さい。 「じゃ、お願い」 イオはミスティオにとってはそれが当然なのだろうか、エレニオルに解除を頼むと、彼は印のようなものを結び短い呪文を唱えた。すると、これまでの森に並行した道とは別の方向へ向かう道が姿を現す。美咲が驚く間もないうちに、一同は開かれた道に馬を進ませた。 「……」 封印を解除してから黙りこくっているエレニオルを不審に思い、イオが問いかける。 「いや…封印の感じがいつもと違ったから」 しばらく馬を走らせると、小さな小屋が見えてきた。木製で一階建ての平屋。まるで童話に出てくる魔法使いの家のようだと、美咲は思った。 コンコン…─ 控えめにノックをすると、ドアはすぐに開いた。立て付けが悪いのか、ギィィと蝶番が低い悲鳴のような音を立てる。 「……」 ほんの少し開いたドアの隙間から顔をのぞかせているのは、少女だった。 「…誰?」 少女が小さな声で問う。愛らしい声ではあったが、どこか冷たさを感じる声だ。 「こんにちは、僕はエレニオル。はじめまして…かな」 少女はエレニオルの言葉を、ただオウム返しするだけだ。視線を落とし、何か思案している様子を見せたあと、少女は小さな声で、けれどもハッキリと「入って」と言った。 「エレニオル…。そっちは、ミスティオ」 自らをアヤメと名乗った少女は、名前の通り菖蒲に似た紫の髪色をしている。後ろの髪は肩につくくらいのボブだが、サイドの髪は長く、耳の上で鈴のついたリボンを使って結われていた。 「アヤメ…、よろしくね。こちらはシュルムプカの側仕えでフレムランカ出身のイオ。そしてこの子が…ええと、説明は難しいのだけど、美咲だよ」 先程から表情の変わらないアヤメに、美咲は少し困惑気味だ。 「ねえ、アヤメちゃん。おババさまは何処にいるのかな? 私達、会いに来たんだけど」 子供の扱いに慣れているのか、イオが少し前かがみになり、目線の高さをアヤメに合わせた。 「おババさまは死んだ」 アヤメの瞳には、困惑も、悲哀も、動揺も、一切の感情が見られない。 「…ま、まあ…ババアだったしな、老衰だろ。エレニオル、逆に考えてみろよ。今でもあの調子でピンピンしてたら恐ろしいぜ」 エレニオルとミスティオは笑っていたが、寂しさという感情を隠しきれていない。 「…それで? おババさまに、何の用」 困り果てた様子の一同に、アヤメは淡々と言葉を投げかける。 「その心配はいらない。占いの仕方、祈祷の方法、おババさまから教えてもらった」 その言葉を聞き、初めてアヤメは困ったような表情を浮かべた。どうしたのか、とミスティオが尋ねると、アヤメは切れ切れに話し出す。 「お墓…ある。けど墓参りはしないほうがいい」 アヤメは部屋の奥に飾ってあった、まるで氷のような透明感を放つ宝石を指差す。 「人魚…獣人の類を探すこともおすすめしない」 ずっと皆の後方に立ち、言葉を発さなかった美咲が初めて口を開く。 「あなた…神子?」 皆がホッと胸をなでおろした。 「けど対価が必要。私にも生活がある。空気を食べて生きているわけではないから、無償でというわけにもいかない」 アヤメの言うことは一理ある。おババさまが生きていればまた違ったのかもしれないが、アヤメと、エレニオル・ミスティオはたった今知り合ったばかりだ。それに、彼女の言う通りアヤメにはアヤメの生活がある。 「…それは?」 アヤメは手を差し出す。エレニオルはその小さな手に、酒瓶を渡した。 「この周辺にいる。…もっともそれは「現在」の話であって、明日には移動しているかもしれない。人魚はあまり広範囲を移動しないけど、行くなら早いほうがいい。この人魚…真面目な性格だけど、後天的な…何か事情があって気まぐれだから」 馬の体力が心配ではあったものの、アヤメが馬に食事と水を用意したため、少しは休憩できたようだ。エレニオルは駒繋ぎから馬を離すと、手綱を持って馬に乗った。 「エレニオル。おババさまの死は不審な点がある。老衰ではなくて、恐らく…」 その言葉の続きに驚愕し、エレニオルは思わず美咲へ向けて伸ばしていた手を離した。 「いったた…」 アヤメに見送られ、美咲たちは再び来た道を戻る。 (この封印の違和感…、アヤメの力が加わっているから? それとも…) エレニオルはもう一度マークをじっと見つめ、シュルムプカへ向かった。 |
第四話 出立
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美咲はイオの案内で、無事元いた部屋に戻ることが出来た。 「イオちゃん、おやすみなさい」 イオと話しながら、美咲は既に半分夢の中だ。間もなく、すうすうと寝息を立て始めた。 「う…」 原因は美咲にあった。悪い夢でも見ているのだろうか、掛け布団を握る手は強く握りしめられ、眉間には皺がより、苦悶の表情を浮かべている。 「せん、…ぱ…」 イオは美咲の顔を覗き込んだ。その唇が震えながら「せ、ん、ぱ、い」と動く。しばらく唸った後、美咲は再びすぅと小さな息を立てて寝入った。 「美咲、うなされてたけど大丈夫?」 息を切らせる美咲の額は、汗でびっしょりだ。 「水、飲む?」 イオはサイドテーブルの上に用意してあった、水の入ったポットからグラスに水を注ぎ、美咲に手渡した。受け取った美咲は、ごくごくと大きな音を立てて飲み干し、息を整える。 「先輩って言ってたけど…どうかしたの? 話したくないならいいけど」 ぽつりぽつりと美咲は立樹の事を話し始めた。立樹に対して憧れがあることは隠し、電話中の事故についてのみ話したが、聞き終えたイオはニヤッと口の端を上げる。 「なるほど、なるほど。美咲はその立樹先輩のことが好きなわけね」 ぼんっとわかりやすく美咲の顔が赤くなる。 「ななななな、ちち、違います! どうしてそうなるんですか!」 イオは頬に手を添え、うっとりとした瞳で語りだす。恋愛話で意気投合とまではいかないものの、美咲もまた、イオが年相応に恋愛を楽しむ少女なのだと知って安心した。 「あの、イオちゃん」 イオは椅子に深く腰掛け、腕と足を組んでうーんと唸った。 「私はおババ様に会ったことがなくて。エレニオル達から聞いた話になっちゃうんだけど…。知る人ぞ知るって感じの占い師みたい。あまり表には出てこないタイプのね。フレムランカって、占いとか祈祷がとても盛んなの。お祭りとかね。詳しくは知らないんだけど、エレニオルとミスティオが小さな頃お世話になったみたいね」 イオの話が再び恋愛話に戻る。椅子から身を乗り出し、もう立っていると言っても良い。 「そ、そうなんだ。じゃあ私はもう寝ます…」 イオは何度も美咲に念を押すと「約束ね」と笑って再び椅子に座った。 「あの…イオちゃんはベッドで寝なくていいの?」 イオが側にいることに安心し、美咲はすぐ眠りにつき、もう悪夢を見ることもなく朝を迎えた。 やがて、やはり馴染みのない、変わった模様の書かれた紙が束で運ばれてきた。エレニオルは「ふう」と息を吐いてから、一枚一枚に手をかざして瞳を閉じる。 「エレニオルさん。それは何をするものなんですか?」 苦しそうに呼吸をしながらエレニオルが笑う。 「そう…なんですか」 エレニオルは椅子から立ち上がり、うんと伸びをした。凝り固まった腰や肩が、パキッと小さな音を立てる。 「……」 特に会話をすることもなく、二人はただ水のせせらぎと風のささやきに身を委ねていた。 「僕はね、美咲」 ふいにエレニオルが口を開いた。 「この国がとても好きなんだ。穏やかで…優しく…、信心深く思慮深い。…けれど今は水の穢れのせいで、シュルムプカに住む人々の性質まで僅かに変わり始めている。ああ、皆が皆ではないよ。でも…争い、競い、奪い合うような事が一部で確かに起きているんだ。それがとても悲しくてね」 美咲は言葉に詰まった。こんな時、どのような返答をすれば良いのか、わからないからだ。 「僕がマクシェーンに助けられ、おババ様と出会い、神官になれたことにはとても感謝しているよ。生まれつき、浄化の能力を持っていたことも。小さな頃は、それを恨んだこともあったけどね」 エレニオルの生い立ちに、美咲は多少の同情を覚えた。 「マクシェーンだけは僕を守ってくれようとして、聖域に入れてくれようとしたけれど…当時のマクシェーンの位はまだ高くなくて、彼が唯一僕に出来たこと、それがフレムランカのおババ様の元へ僕たちを逃がすことだったんだ」 そう言って、エレニオルは美咲に左手を差し出す。美咲は首を傾げた。その手は特に何か損傷や怪我があるわけでもなく、強いて言えば、男性にしてはやや細い指、といったところだろうか。 「見ていて」 エレニオルは目を閉じ、左手をかざした。途端に、左手の甲に模様が浮かび上がる。当然、美咲が初めて見る模様だった。 「ッ!」 エレニオルはすぐに目を開き、左手を右手でゆっくりさすった。 「右手に浄化を行う能力が、左手に穢れを与える能力が宿っていてね。左手が穢れを生まないように処置してくれたんだ」 緊張の面持ちだったエレニオルは、息を吐きながら笑った。 「ははっ、凄いは凄いんだけど、本当に厳しい人でね。僕は兄さんと違って体を動かすことが苦手だから、護身術を教えてもらっている時もなかなか上手くできなくて、何度もおババ様からげんこつを食らったよ。子供ながらに納得出来なかったなあ。運動神経なんて生まれつきのセンスもあるのにって思ってたよ。言えなかったけど」 二人は運動音痴エピソードに花を咲かせ、ようやく笑顔を灯らせた。 「エレニオルさま、忘れ物はございませんか」 マクシェーンが心配そうに尋ねる。エレニオルは服のポケットに手を当て、ぽんぽんと軽く叩いていく。 「うん…、護身用の短剣も持ったし…おババ様へのお土産も持ったし…」 立ち会わせたデニルがイオの肩を押さえながら言う。イオは面倒くさそうにハイハイと返事をした。 「イオ、携帯食と非常食は十分に持ったか? お前は腹が減ると途端に動きが鈍くなる。多めに用意していきなさい」 ミスティオが聞き慣れない名前に首を傾げた。 「そうなの、実はね…ごにょごにょ…、凄く強くてね…コソコソ…かっこいいの! きゃーっ!」 内緒話をしているつもりなのだろうが、地声が大きいため全て筒抜けだった。チラチラと視線を送る先に立っていたのは、涼し気な目元でポーカーフェイスな男。彼が、先日イオの話していた側仕えの男性なのだろうと美咲は理解した。 「お前に惚れられる男を心底同情するぜ」 相変わらずくだらない言い争いをするミスティオとイオを横目に、エレニオルと美咲は出立の挨拶をマクシェーンと他の神官と交わしていた。 「大体、お前俺より足太いんじゃねえの? 本当に女か怪しいもんだ」 エレニオルの大きな声に、ミスティオとイオは口論をやめたが、未だ交わる視線に火花が散っている。 |
第三話 薄い毒
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用を足し終えたはいいものの、美咲はこの広い聖域の中ですっかり迷子になっていた。どこかでポータルに乗り間違えたのだろうが、それがどこであったのかももう思い出せない。他の神官とすれ違うこともなく、焦燥感にかられながらそれでも歩みを進めた。 「うぅ…私、方向音痴なのに…」 やはり付き添ってもらえばよかった、と先程の自分の言葉を後悔した。 「ちょっとアンタ! ストップ!」 突如背後から聞こえたのは、若い女の声。美咲はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。 いきなり現れた少女に驚き、美咲はつい少女を上から下までじっくりと眺めてしまった。上半身は和風の紅い着物風のトップスで、首元には目の色より明るい緑のストールが巻かれている。 「あんた、見かけない顔ね。この先に何があるのか、知らないわけじゃないでしょ?」 美咲は、先程風呂を借りた際に、鉄紺色の神官であることを証明する服を借りている。故に、少女は美咲をこの聖域の神官だと思っているようだ。 「私、佐倉美咲っていうんです。神官ではないですし…怪しい者では…」 少女は美咲の腕をぐっと掴むと、廊下の先にあるポータルには乗らず、元来たポータルに乗る。美咲を怪しんでいる様子だが、その心配よりも人と会えた安堵感のほうが勝った。 「パパ! 儀式の間の前に変なやつがいたの!」 部屋の中に居たのは、神官よりも重装備を身に着け、腰に剣や槍を携えた男女であった。彼らの視線が少女に集まる。 「イオ! ドアは静かに開けなさいと何度言ったらわかるんだ、馬鹿者!」 少女─イオという名前なのだろう─がパパと呼んだ筋骨隆々の中年男は、視線をイオから美咲に移すと、その鋭い瞳はどんどん丸くなっていく。 「み、神子さま!」 イオと呼ばれた少女は首を傾げて、美咲を見つめる。その瞳は、パパと呼ばれた中年男と同様に丸みを帯びていく。 「さくら、みさき…。確かにこの辺りでは聞かない不思議な名前だよね…、ってことは、え、本当に神子さまなの?」 イオの丸くなった目が、オババ様という単語に反応し、更に丸くなっていく。 「え? オババ様って…、どうして?」 デニルがイオの腕を掴もうと、巨大な体躯には似合わぬ速度で迫る。 「私は神子さまと呼ばれるより、佐倉か、美咲と呼ばれたほうが落ち着きますから…」 イオの笑顔はまるで夏にさんさんと輝く太陽のようで、その笑顔につられて、美咲の顔にも笑顔が咲いた。ただ一人、イオの父であるデニルは硬い表情のままであったが、イオと美咲が話す様子を見て、一応の納得はしたようだ。 「美咲、ご飯は食べた?」 言うが早いかイオは美咲の手を取り、ずんずんと歩き出す。彼女の歩幅は大きいようで、美咲は必死に足を動かした。 「それで美咲、部屋の特徴とか覚えてる?」 一生懸命部屋の内装を思い出すが、これといった特徴がない。 「んもー! そんなのどの部屋も一緒だって。というか、神子さまだって言われてるのに、そんな普通の部屋に通されたの? まぁこの聖域内にスイートルームなんてないしどれも質素な…あっ、こんなこと言ったらまたエレニオルに怒られそう。あははは!」 大きな口を開けて笑うイオを、美咲は羨ましそうに見つめ、緊張が和らいだ。ぎゅっと手を握ったまま、イオは「そうだなぁ」と歩みを進める。しかし、しばらくするとピタリと足を止めて口を開く。 「多分、この時間ならエレニオルもミスティオも食堂でご飯食べてると思うんだよね。そこ行こうか? 美咲が部屋に戻らないとなると、神官から連絡もあるだろうし、大丈夫だよ。お腹空いてるでしょ?」 返事の代わりに、美咲の腹がぐぅと鳴った。顔を赤くする美咲を見て、イオはまた太陽の様に笑う。 「私もお腹ぺこぺこ。行こ!」 いくつものポータルを乗り継ぎ、角を曲がって行く。美咲には、もうどこをどう歩いたのか、わからないくらいだ。 「エレニオルー! ミスティオー! 美咲連れてきた!」 突然の大声に驚いたエレニオルは口元を手で覆ってむせ返り、ミスティオも飲もうとしていた水を、驚きのあまり膝元に零していた。 「じゃじゃ馬って呼ぶなあ!!」 喧嘩が始まったのかと、美咲は狼狽えながら、ミスティオとイオの顔を交互に見る。しかし、同室にいたマクシェーンをはじめとする他の神官も慌てる様子がなく、止める気配もなく、食事を続けている。 「兄さん! イオ! ここは女神シュルムプカ様の聖域内であることを忘れていないかな?」 それを聞いたミスティオとイオは、バツが悪そうに互いから視線をそらす。 「チッ…」 ミスティオは舌打ちをした後、膝元をナフキンで拭ってからゆっくりと腰を下ろし、イオは胸の前で小さく手を組み女神シュルムプカに祈りを捧げた。 「女神シュルムプカ様…どうか私をそのお慈悲でお許し下さい…。ミスティオのせいだけどお許しください…。ところでさ、エレニオル」 美咲が事情をかいつまんで話している最中に、美咲の食事を取りに部屋で分かれた神官が、血相を変えて「神子さまが!」と駆け込んできた。かなり息が乱れてる所を見ると、必死に美咲を探していたのだろう。食堂にいる美咲を見ると、へなへなと座り込んでしまった。 「美咲ね、祭壇の間に通じるポータルの前にいたの。だから不審者だと思って、パパのところに連れて行っちゃった。見かけない顔だけど、神官の服着てるし」 先程部屋で見た夢のせいか、折角だが用意してもらった部屋で一人食事をする気分でもなかった美咲にとって、イオとエレニオルの提案は喜ばしいものだった。 食事の内容は質素なものであった。少し固いパン。薄いコンソメスープ。千切りキャベツと豆のサラダ。気持ち程度に添えられた、二粒の葡萄。飲み物は牛乳で、美咲は小学生の頃の給食を思い出した。 「今は水の汚染が進んでいて、作物が不作でね…豪勢な料理でもてなしが出来ず、すまない」 不満げな顔をしていただろうか、と美咲はブンブンと首をふると慌てて笑顔を浮かべる。 「そんなことないです! このスープ、とても美味しいですよ。キャベツもシャキシャキだし…」 ならば「神子」の意味とはなんだろうか、と美咲は首をかしげた。 「進行を僅かに遅らせる程度の浄化はね。女神シュルムプカが神子に授ける力ほど強力なものではないし、完璧に穢れを浄化させることは出来ないんだ。そして浄化も全ての神官が出来るわけではなくて…僕と、マクシェーンだけ」 同じ血を分けた兄弟で、能力に差があるものだろうか。純粋な美咲の疑問に、ミスティオは「ああ」と答えた後、質問の意図を理解して言葉を続ける。 「あー、俺は浄化の儀式は出来ねえんだ。これに関しては生まれついての才能みたいなもんんだな。同じ時代にエレニオルとマクシェーンがいるだけでも奇跡的。だから兄弟であっても、聖域を継ぐのは浄化の能力があるエレニオルだ。俺が出来るのは穢れた水を摂取して暴走した動物の処理とか、戦闘におけるサポート全般だな」 ミスティオは「別に」とぶっきらぼうに返すと、固いパンを齧った。 他者とのコミュニケーションが苦手な美咲は、食べるのも遅い。やっと最後の一口、固いパンを口に入れると咀嚼しゆっくりと飲み込んだ。最後に牛乳を飲むと、ミスティオの言う「毒」という言葉が脳裏をかすめた。 「神子さま」 優しく美咲に話しかけたのは、老師マクシェーンだ。彼の癖なのか、ゆっくりと長い髭を撫でながら、目を細めてにこにこと笑っている。 「今日はお疲れになられたでしょう。夜の聖域内はとても静かです故、どうぞごゆるりとお休み下さい」 部屋で見た夢のことを思い出し、美咲は思わず口ごもる。夢が怖くて眠れない、一人は怖い…なんて子供のようなことを言うのは憚られた。その様子を見た膜シェーンは、更に目を細めてイオの名前を呼ぶ。 「イオ、今宵は神子さまのお側でその御体、お守りしては如何かの」 イオは鍛え上げた力こぶを見せて、ニッと頼もしげに笑った。 「じゃ、食べ終わったみたいだし行こうか」 余所余所しい挨拶を交わして、美咲はイオと共に部屋を後にした。 |
第二話 戸惑い
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第二話 戸惑い 美咲に神子としての力が宿っているのかを確かめる方法は、至ってシンプルなものだった。まず美咲の前に白いテーブルが置かれ、その上に水の入ったコップが置かれた。その異臭に、美咲は思わず顔をしかめる。 「あの…これは?」 エレニオルは困ったように笑う。 「それは、こう…神子の力で…」 その場の誰もが黙り込む。沈黙を破ったのは、ミスティオの大きなため息だった。 「で、マクシェーン。どうすればいいんだよ、何か知ってるだろ?」 ミスティオに問われたマクシェーンは、ゆっくりとした動作で髭をなでながら唸る。いくらマクシェーンが経験豊富な神官といえど、神子が現れたのはシュルムプカ有史以来の出来事だ。知らないのが当然である。 「困りましたな…、確かに女神シュルムプカの残した言葉通り、穢れた水を浄化する、というのは間違えていないと思われますが…そうですな、ミレーネに聞けば何かわかるやもしれません」 美咲は「人魚」という単語に戸惑っていた。そんなものは、童話やおとぎ話の世界に存在する架空の生き物の名前だ。しかしどうやらシュルムプカでは違うらしい。 「ならミレーネに会いに行くのが良いね。彼女が居た場所は覚えてるかな?」 エレニオルとマクシェーンは首をひねって考え込むが、ミスティオだけはやる気が無いらしく大きなあくびをしていた。しかし、そんな彼が目尻に溜まった涙を指の腹で拭いながら、思わぬ提案を持ちかける。 「じゃあフレムランカのババアに聞けばいいんじゃねえの」 話についていけない美咲は、聞き慣れない三つの単語をぽつりと呟いた。その様子を見たエレニオルが、顔を上げてにこやかに説明を始める。 「ああ、美咲。勝手に話を進めてすまないね。まずはこの大陸にある六大国の話をしようか。まずは僕たちが住む、このシュルムプカ。女神シュルムプカを信仰し、加護を受けている国なんだ。今は女神シュルムプカの力が弱まり、水の穢れが発生しているけれど…本来は美しく豊かな水が溢れる国だよ。水の国、とも呼ばれているね。フレムランカは火の国とも呼ばれていて、一年中暑いからシュルムプカの人々は苦手な人が多いのだけれど…フレムランカの神はとても強い戦神でね、そのせいか優秀な戦士が多く、性格も気さくで明るい人達が多い。喧嘩っぱやいのも特徴のうちかな…」 エレニオルは話を続ける。鉱山に恵まれた地の国アーデイト。難攻不落の空中都市、風の国ウイラエイラ。そして対立し合う、光の国クロスラナと常闇の国ローゼスハイネ。 「行くなら早いほうが良い、けど…支度もあるからね。二日後にここを出ておババ様のいるフレムランカの国境近くに向かおう。おババ様に会うのなら、僕と兄さんが直接出向いたほうがいいから、美咲と僕と兄さんの三人で出発だね」 ミスティオは両手を頭の後ろで組み、チッと小さく舌打ちした。 「こんな時にあのじゃじゃ馬はいねえのかよ」 マクシェーンは落ち着いた声で「かしこまりました」と答えた。 「僕はそれまでにやるべき仕事を終わらせておくから、兄さんも体を慣らしておくように」 美咲は困惑したあと、最後のあがきとばかりに語気を強めて言う。 「あの、私本当に神子なんかじゃないんです! 家に…、病院に行きたいんです」 エレニオルは困り、眉を下げながら美咲に返答をした。 「少しだけ待ってほしいんだ。美咲が神子かどうか確認する方法は、恐らくミレーネにならわかるはず。人魚は人嫌いだから、簡単に見つかるとも考えにくい。そこでフレムランカの国境にある、おババ様を訪ねてミレーネの居場所を占ってもらう。ミレーネならきっと、穢れを払う方法を知っていると思うんだ。その方法を試したあと、美咲が神子ではないと判明したら、必ず病院に送り届けるから…頼むよ。並行して書庫にある書物を徹底的に調べるから、君が元の世界に帰る方法も一緒に探すと約束しよう」 何を言おうと、美咲は家にも病院にも行けない。しかし、希望がなくなったわけではない。書庫を調べて何かがわかるかもしれない。帰る方法が見つかる可能性もある。それに何より、今日は色々なことが起こり美咲も疲弊していた。 「ああ、そうだね。部屋を用意させているから、そこで休むと良い。食事の時間になったら知らせるよ」 物腰柔らかな女性神官が美咲に微笑みかけ、美咲を先導する。美咲はエレニオルとミスティオ、そしてマクシェーンに軽く会釈をした後、女性神官の後につきポータルの上に乗った。 「ありがとうございます。じゃあ私はこれで…」 美咲はもう一度お礼を言い、部屋の中に入るとベッドに腰掛けそのまま後ろに倒れ込んだ。はあ、という深い溜め息が美咲の口から漏れる。 「一体何が起こってるの…わからないよ…、先輩…」 腕で目を覆い、キュッと唇を噛んだ。瞼の裏に映るのは、担架で運ばれる立樹の姿。 「先輩…」 これは長い夢なのだと自分に言い聞かす。目を覚ましたら、きっと自分の部屋の見慣れた天井が目に入るはず。そうしたら、一刻も早く立樹の元へ行こう。 ぴちゃん…ぴちゃん… 「ん…」 ぴちゃん…ぴちゃん…。 「…、…」 その音に呼応するかのように、どこからか声が聞こえた。とても小さな声でよく聞き取れないが、美咲の名前を呼んでいるかのように思えた。 「だ、誰?」 外で待機しているという、先程の女性神官だろうか。気がつくと辺りは真っ暗で、ぼんやりとしか部屋を見渡せない。ドアの方を向き「あの!」と声をかけるが、外からの返事はなかった。その代わり、先程よりしっかりとした声で美咲をよぶ声が聞こえた。 「美咲…、…を手に入れなさい…」 声はどんどん弱々しくなり、結局何が言いたいのか、何を伝えたいのかがわからないまま部屋は静けさを取り戻したが、それが不気味に思えた美咲はベッドから飛び降りると慌てて部屋のドアを開けた。あまりの勢いに、外で待機していた女性神官がビクリと肩を震わせる。 「わっ…い、如何なさいましたか?」 美咲の突拍子もない発言に、女性神官は怪訝に首を傾げる。 「いえ、どなたもこの部屋には入れておりません」 不要だと言いかけたとき、お約束のようにお腹がぐうと鳴った。 「お疲れのようですから、こちらの部屋でお召し上がりになりますか?」 女性神官は柔に微笑み、トイレへの道順を美咲に伝えると、食事を取りに廊下の奥に姿を消し、美咲も道順を忘れぬうちに部屋を後にした。 |
第一話 プロローグ
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寝支度を調え、ベッドの中で大事にしているテディベアを抱きながら、美咲は深いため息を吐いた。 (はあ…明日も行きたくないけど、そんなわけにはいかないし…) 学校での成績は優秀なほうであったが、それだけで学園生活が楽しいわけではない。大人しい性格のせいか友達は少なく、当然のように親友と呼べる相手もいなかった。 (…先輩もいないし…) テディベアをベッドに寝かせ、自身も横になると美咲は去年の体育祭を思い起こす。 ・・ 「はあ、はあ…」 ニカッと笑った眩しい笑顔を思い出すと、美咲の胸がトクンと高鳴る。 「おいおい…美咲、大丈夫か?」 その時笑った立樹の顔に、美咲は思わず見とれ、時が止まる感覚を覚えた。体育祭がきっかけで交換したメールアドレスには、頻繁にではなかったが立樹からメールが届くようになり、美咲は高鳴る胸の理由が立樹への「恋」であることを知ることになる。 ・・・ 今年は美咲が三年生で、二年生と一年生を引っ張っていかなければならない。しかしコミニュケーション能力が低く、引っ込み思案な美咲は上手にリードすることが出来ず、毎日のように行われる体育祭の練習に嫌気が差していたのだ。 「おー、美咲。どうした?」 直後、けたたましい音が受話口から聞こえ、美咲は思わず耳を携帯電話から離した。 「先輩! どうされたんですか? 凄い音が…先輩?」 美咲がいくら問いかけても立樹からの応答はなく、聞こえてくるのは女性の叫び声と、救急車を呼ぶよう求める声、そして「事故だ!」という大勢の人々の声だった。美咲は何度も立樹を呼ぶが、相変わらず立樹の声は聞こえない。美咲の額に、嫌な汗が流れる。 「まさか先輩…!」 立樹が事故にあったと決まったわけではない。しかし、家でじっとなどしていられない。パジャマのままでは気が引けるが、お洒落をしていく事態でもない。一番近くに掛けてあった制服を着用し、美咲は家を飛び出し駅前に向かった。 「先輩! 先輩!!」 救急車はサイレンを鳴らして走り去り、しばらく経つと野次馬も一人、また一人と散っていく。最後に残った美咲は落ちていた立樹の携帯を発見すると、その場に立ち尽くした。 (嘘…私が電話をかけたせいで、先輩は…事故に?) 美咲は頭を抱えてしゃがみ込み、ヒビの入った立樹の携帯を握りしめた。少し離れた場所にはパトカーが停まっており、事故を起こしたであろう運転手が事情聴取を受けている。 「ごめんなさい、ごめんなさい、先輩…私の、…せいで」 水たまりに膝を付くと、美咲の瞳からはポロポロといくつもの涙がこぼれ落ちた。涙は水たまりに落ちて溶け、降り注ぐ雨粒が水たまりを更に大きくさせていく。 「……?」 ゆらり、とそれが動く。それは、長い髪の女性だった。水たまりの向こうから美咲を見つめている。状況だけで言えば恐ろしい出来事のように思えるが、美咲は不思議と恐怖を感じなかった。水たまりの向こうに映る女性は、そっと腕を美咲に向かって伸ばす。ちゃぷ、と水たまりの揺れる音が聞こえると、白い腕が美咲に向かって伸びる。 「……」 これは誰なのか? 夢なのか? 幽霊の類だろうか? 女性の白い腕は美咲の頬に今にも触れそうだ。美咲はぎゅ、と固く目をつむったが、頬どころか体のどこにも女性の腕が触れる感触はない。 「おい、本当なんだろうな。嘘だったら怒るぞ」 突如草むらから現れた男性二人に驚き、美咲は言葉を失った。 「す、すみません! ここで水浴びしてるなんて思わなくて」 白い法衣のようなものを纏った大人しそうな男性と、頭にターバンを巻いた男性の二人組だ。二人の刺さるような視線に耐えかねた美咲がおずおずと口を開く。 「あの…何か?」 歯切れの悪い法衣の男に美咲は首を傾げ、ターバンの男は怪訝そうに美咲を見つめる。 「おい、お前随分変わった格好してるな。どこの国から来た?」 先輩の事故、長い髪の女性、突然変わった景色、聞き慣れぬ単語。美咲の頭は混乱していた。先程は確かに雨が降っていたはず。それは美咲の髪や制服についた水滴が証明している。 「先輩…」 立樹が事故にあったことを思い出し、美咲は俯き静かに泣き出した。 「ほら! 兄さんがそんな怖い顔と声で言うから」 美咲は指先で目尻に溜まった涙を拭うと、小さな声で「美咲」と答えた。 「美咲、か…美咲ね。おい、一度俺たちと一緒に来い。聖域に連れて行く」 法衣の男は草をかき分け道を作り、美咲を先導した。 「エレニオル様! ミスティオ様! やはり私たちに黙って外出されていらしたのですね。全く…」 ピラミッドばかりに注意が向いていたが、下の方に目線を移すと、門番なのであろう女性が立腹した様子で立っていた。 「あはは、ごめんごめん。けど…もしかしたら僕たち、見つけたかもしれない。ついに、さ」 美咲は、じっと自分の顔を見たまま何も言わない女性に戸惑い、自分から声をかけた。女性はハッとした様子で姿勢を正し、お辞儀をしてニコリと微笑んだ。 「ようこそシュルムプカへ。どうぞ、中へお入りください。エレニオル様とミスティオ様も。マクシェーン老師にあまりご心配をおかけにならぬよう」 美咲はターバンの男に引っ張られ、ピラミッドの中に足を踏み入れた。美咲の頭は混乱しっぱなしで、ただ黙ってエレニオル、そしてミスティオと呼ばれた男二人の後ろをついて歩く。 「さ、乗れよ」 乗って一体何をするのかわからず、美咲はただただ戸惑うばかりだ。 「それは違う階層に一瞬でワープするポータルだから怖がる必要はない、…ってきちんと説明しなきゃ駄目だろ、兄さん」 ターバンの男に背中を押された美咲は、バランスを崩しながらも辛うじて石の上に立つことが出来た。足元にある石の周りに波紋が広がり、次の瞬間には景色が変わる。 「別に怖かねぇだろ?」 部屋の奥から、一人の老人がゆっくりと姿を見せる。法衣の男と似た白い法衣を身にまとっており、年齢は七十歳前後だろうか。とても優しい顔立ちの老人だ。 「エレニオル様、そのような大声を出さずとも聞こえておりますよ。マクシェーンはここにおります。どうなさいました?」 マクシェーンと呼ばれた老人が、加齢のせいか小さくなった目を大きくして美咲を見ると、美咲は気負いしターバンの男の背後に隠れた。ターバンの男は更にその背後に回り込み、美咲の背中をグイッと押す。 「シュルムプカの神子なんて、どんな神々しい美女かと思いきや…ガキじゃねぇか」 どうやら法衣の男がエレニオルという名前のようだ。彼は女性の申し出を聞き入れ、女性は美咲に微笑みを向けて「私が先導しますので」と口を開き歩き出す。先程とは別のポータルの上に立ち移動すると、再び景色が変わる。基本的には同じ構造なのか、廊下の両脇に水が流れており、蓮の花が揺れている。未だ混乱はしているものの、少し余裕が出てきた美咲は蓮の花にしばし見とれた。 「聖域に咲く蓮の花は美しゅうございましょう?」 元から人見知りをする美咲は、恥ずかしさを隠すためやや俯いて歩くことにした。女性はそれ以上声を発することはなく、やがて石造りのドアの前で足が止まった。 「ここは私達神官見習い用の風呂場なのですが…こちらでよろしいですか?」 引き止める声も虚しく、女性はお辞儀をしてドアを閉め立ち去ってしまった。確かに美咲の体は濡れた制服や髪のせいで冷えていたため、風呂を借りられるのは有り難い。シャワーで体を流した後、普段は大勢で入るのであろう、一人で入るには広すぎる浴槽に身を沈めた。 「ふう…。のんきにお風呂なんて入ってて、いいのかな…」 温かな湯が雨のせいで冷えた美咲の華奢な体を包む。 「きっと夢だよね…、だから先輩もきっと…」 風呂の湯に反射する美咲の顔は今にも泣き出しそうだ。 (きっと夢だから…もうすぐ、覚めるから) 右目から流れた一筋の涙は、湯の中に落ちて溶けていった。 ─…十分に体が温まり、風呂からあがると制服の代わりにタオルと代わりの衣服が置かれていた。先程の女性が着ていたものと同じだろう、黒いサテンのワンピースと、半透明のストールが二枚。美咲はお洒落に疎いこともあり、ストールを二枚もどのように着用すればいいのかわからず、四苦八苦していると「失礼します」の声の後、ドアが開いた。 「あら…私としたことが、お着替えお手伝い致します」 ワンピースはただ着るだけだが、どうやら半透明のストールは真ん中を肩にかけ前後に垂らし、ベルトを用いて腰で固定し、それより下は垂らして着用するようだ。 「とてもお似合いですよ。では大広間に戻りましょう、神子さま」 来たときと同じポータルに乗り、美咲は先程の大広間に戻った。先程よりも空気は重たく、美咲の歩く道を守るようにして神官たちが立っている。美咲を先導していた女性もそこに並ぶと、通路の先に立つ神官の男─恐らくエレニオルという名前の男だ─が美咲を呼んだ。美咲はゆっくり通路を進み、うつむき加減で口を開く。 「あの…」 白い法衣を着た男が名を名乗った。品の良い豪奢な椅子に座ったエレニオルは優しく微笑んだ。 「で、俺がミスティオ。見ての通り、エレニオルとは兄弟で俺が兄」 そんなことを聞かれても、と美咲は口をつぐむ。立樹が救急車に運ばれている姿がフラッシュバックし、体がぶるぶると震えた。何を言えばいいのかもわからないが、言葉を発することも難しい。震えだした美咲を見て、エレニオルはマクシェーンに助言を賜ろうと視線を向けるが、マクシェーンはひげを撫で、目を細めて美咲をじっと見るだけだ。 「シュルムプカでは近年、大小を含めた様々な異常が発生している。神聖なる水の汚染、その水を飲み凶暴化する人々や動物…上げだしたらキリがない。古よりの伝承で、シュルムプカを始めとする六大神は、その神力を持って異なる世界に干渉する力をも持つと言われている。そして己が守護する国に危機が訪れた時、神に選ばれし神子をこの世界に召喚する、と」 皆の視線が美咲に集まる。美咲は緊張しながら、言葉を選んで口を開いた。 「私は…夢を見ているのだと思っています。シュルムプカという国名は見たことも聞いたこともありません。きっと…きっとショックで夢を見ているだけなんです。だから先輩も、先輩も…」 先輩という言葉を発した途端、美咲は目尻いっぱいに涙を溜めたが、すぐに指で拭い取った。 「おいおい、夢なんかじゃないぞ。シュルムプカはここに存在している。国も、民も、そして神もだ。現実受け入れろよ」 美咲は俯いたまま、気にしなくていいという意を込めて首を横に振った。 「大丈夫。君が神子かどうかを確かめる簡単な方法があるんだ。それを行えば、女神シュルムプカから力を授かっているか否かがすぐにわかる」 美咲は受け入れがたいことの連続で憔悴していたが、違うとわかれば病院に向かえるのだからと自らに言い聞かせ「わかりました」と小さく呟いた。
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