カテゴリー: シュルムプカの神子

第六話 海へ

第六話

 一同は寄り道をすることなく、馬に無茶をさせ、急ぎシュルムプカへ戻った。到着すると、馬を馬舎で休ませ、沢山の水と食事を与えると、聖域内の大広間へ向かうポータルに乗り、移動を繰り返した。
 大広間の奥にある、最高位の神官が腰を据える椅子には、エレニオルの代わりに先代の最高位神官でもあるマクシェーンが座っている。

「マクシェーン、今戻ったよ」
「…おお、これは。エレニオルさま、神子さま」

 書類に目を通していたマクシェーンは顔を上げ、椅子から降りると、ゆったりとした足取りでエレニオルたちの元へ歩みを進める。

「おかえりなさいませ。して、如何でしたでしょうか」

 エレニオルはおババ様がすでに亡くなっていたこと、代わりにアヤメという少女がおり、占いを頼んだ旨とその内容を伝えた。
 マクシェーンは目を閉じ、ひげを撫でながら話を聞き終え、口を開く。

「そうですか…もう旅立っていたとは。恐らくですがアヤメ殿の言う通り、早く出立されたほうがよろしいでしょう。可能であればすぐに…と言いたい所ですが、神子さまのお体が第一ですな」
「いえ…私は大丈夫です」

 そう話す美咲の顔色は悪く、とても大丈夫なようには見えない。しかし早く向かわなければ、ミレーネが移動してしまう可能性もある。そうなってしまうと、美咲が神子なのか、そうでないのかと確かめる術を失ってしまう。
 そもそもミレーネが確かめる術を知っているかも不確かで「賭け」なのだ。そんな「賭け」でも可能性の一つなのならばやらなければならない。

 美咲たちはほんの僅かの時間、体を休めると、先程とは違う馬に跨り、アヤメが記した海に向かって出立した。
 幸いなのは、海まで馬を全力で走らせれば、フレムランカへ向かうよりは近いということだ。
 美咲はエレニオルの前に座り前方を眺めていたが、疲労からか、突如として眠気に襲われた。
 彼の胸に頭をあずけて、ウトウトと眠ると、起きる頃には日も暮れ、海と海に沈む太陽が眼前に広がっていた。橙色の陽光が海に反射し、キラキラと輝いている。
 その美しさに、美咲は感嘆の声を上げた。

「この辺りにテントを張って、明日の早朝から海を探索しよう」

 これから訪れる闇の中での探索ではないことに安堵を覚えた美咲は胸をなでおろす。
 満潮に備え、浜辺からは少し離れた位置で馬を降り、皆でテントの設置をはじめる。美咲も慣れぬ手付きで、やはり苦手な作業だと思いながらも、足を引っ張らぬよう懸命にテントを張った。
 テントが完成すると、エレニオルは焚き火の枝を取りに、ミスティオは魚を捕りに海へ潜っていく。
 残った美咲とイオが調理道具のセットを終える頃には、枝も魚も集まった。

 パチパチと焚き火が音を鳴らす。夜の海は冷えるため、火の存在が随分とありがたく思える。聖域で大した休憩もとらなかったため、皆疲労の色が濃く出ており、腹も減っていた。
 今か今かと串代わりの枝に挿した魚の焼き上がりを待ったが、焼いていくうち、辺りに漂ったのは香ばしい匂いではなく腐臭だった。

「…だめだな。この魚、穢れの影響を受けてやがる」
「人魚が住む海ならと思ったけど…こんなに穢れが酷いとは…」
「悪く思うなよ」

 ミスティオは枝から魚をとると、焚き火の中に放り込んだ。一層強い腐臭が辺りを包んだ後は、パチパチという火の音だけが残る。

「…穢れた水は、海の生物にまで影響を与えるんですね…」
「人魚が住むくらいだから、ここまでは進行していないだろうと思っていたのだけど。これじゃあ、もしかすると…」

 エレニオルはそこまで言って口をつぐんだ。何が続くのかは、皆察しが付く。
 しかし口にしてしまえば、まるでその通りになってしまう気がしたのだ。
 イオは食料を入れた鞄から人数分のパンを取り出し、軽く焚き火で炙って配り始めた。

「はい、これ美咲の」
「あ…ありがとう」

 受け取った美咲は、小さな口を開けてパンを頬張った。
 焼いて少量のバターを塗っただけのシンプルなパンだが、空腹にはごちそうだ。イオも幸せそうに頬張り、手に頬を添えてうっとりとしている。
 どうせこれ以上は何もない、と思いながら突っ込んだ食料入れの鞄から、パンが一つ出てきた。どうやら多めに入れてしまったらしい。

「…ごく。み、美咲食べる?」
「私は大丈夫…お腹いっぱいだから」
「…ごく。エ、エレニオルは?」
「僕もいいよ」
「じゃあ貰っちゃおうかな」
「俺にも聞けよ、じゃじゃ馬ぁ!!!」

 唯一尋ねられなかったミスティオがすぐに突っ込みを入れた。

「なんでアンタに聞かなきゃいけないの。欲しけりゃ奪い取ってみな、ほーれほれ」
「…はあ、バカバカしくてやってらんねえ。お前、腹が減るとパフォーマンス下がるんだから食っとけ」
「う…悔しいけど反論できない」

 じゃあ、とイオは残りのパンを頬張る。「ん~!」と幸せそうに口を動かした後、ごくんと飲み込んでお腹を擦り、美咲はそれを見て柔に笑った。

 夜はイオとミスティオの二人が交代で番に当たる。
 美咲とエレニオルは、それぞれ別のテントに入り横になった。少し肌寒いが、用意した毛布で凌げる程度だ。
 美咲は疲れもあり、横になるとほぼ同時に夢の中へ落ちていった。

 ブクブクという音で美咲は目を覚ます。美咲は海の中にいた。どちらが上で、どちらが下なのかもわからない。
 ただ辺りにはあぶくが浮かび、ブクブクという音を立てていた。
 ああ、これは夢なのだとすぐに気がつく。
 後ろを振り向き、上を見て、下を向いた後、まっすぐに姿勢を正す。

「ミスタリアに…」

 ブクブクという音の中に、突如声が交じる。美咲は驚き、周りを見渡すが周囲には人の気配もない。

「ミスタリアに力を借りなさい」
「ミスタリア…?」

 その名称に聞き覚えはない。ここへ来てから耳にしたことがあっただろうかと考えだすと、次第に意識が混濁しはじめた。
 途端に体が上昇し、海面に体が浮いていく。丁度、海の中から顔を出すと同時に、美咲は勢いよく飛び起きた。
 辺りの空気は冷たく、わずかに滲んだ汗と火照った体を冷やしていく。
 すぐ隣を見やると、休憩中なのか、イオが足と腹を放り出して眠っている。イオを起こすのは忍びない。イオにそっと毛布をかけ直すと、美咲はテントの入り口からひょっこりと顔を覗かせた。

「…ん?」
「あ…」

 テントの外ではミスティオが焚き火に枝を焚べながら暖を取っていた。

「あの、いきなりですけど…ミスタリアって名称に心当たりはありますか?」
「は?」

 美咲の唐突な質問に、ミスティオはきょとんとしている。テントから出た美咲は、ミスティオの隣に座ると先程の夢の話を伝えた。

「ミスタリア…ミスタリアな…俺は聞いたことねえな。シュルムプカにそんな地名もねえし」
「地名でなければ、誰かの名前という可能性もあるね」

 ゆったりとした動作で、エレニオルがテントから姿を現し、あくびを噛み殺しながら美咲の向かい側に腰掛け、手のひらを焚き火に向けた。

「ミスタリア…僕も聞いたことがないけど、美咲が夢で見たっていうくらいだし、託宣かもしれないね」
「私が託宣を見るなんて…」
「ありえない、とも言えないからね。今の状態では」
「そう、ですね」
「エレニオル。お前よく休んでおけよ、明日の人魚探索にはお前の力が必要なんだぞ。暖まったらすぐに寝ろ」
「あはは、わかってるよ。ありがとう、兄さん。それじゃあ僕はこれで。ふう…」

 エレニオルはもう一度を噛み殺し、テントの中へ戻っていった。

「あ、あの。ミスティオさん。寒いですから…その、冷えないようにしてくださいね」
「そのために焚き火の隣に立ってんだよ」
「そうですよね。…おやすみなさい」

 翌朝は風も雲もない快晴だった。
 皆がとっくに支度を終えた頃に起きた美咲は、慌てて支度を整え、テントの片付けを手伝う。
 慣れぬ地で慣れぬ作業。寝起きにテントを片付けるだけでヘトヘトになり、美咲は自らの体力のなさを嘆いた。
 もうすぐ荷物もまとまるという頃、美咲は昨晩から抱いていた疑問を口にする。

「人魚さんってことは…海の中に入るんですよね?」

 荷物の最終チェックを行っていたエレニオルが顔をあげ「そうだよ」と笑った。

「…どうやって海の中に入るんですか? もしかして、泳ぐんですか…? 私、あの…泳げないんです」

 美咲以外の三人の目が点になる。一瞬の間を置き、イオがプッと吹き出す。

「あはは! 全然心配いらないよ。海の中にはね、エレニオルの魔法を使って入るの」
「は、はあ…。魔法ですか」
「海の中を自由に移動出来るんだよ、私も数回しか経験はないけど楽しいんだよね~、あれ」
「イオ、遊びじゃねえぞ」
「わかってるっての、うるさいな」

 またも火花を散らしそうな二人を横目に、エレニオルがこの後のことについて説明を始めた。

「大きな泡を作って、その中に一人ずつ入るんだ。道を歩くように足を動かせば、水の中を自由に歩き回れるよ」
「へえ…?」
「実際に見たほうが早いね。それに急いだほうがいいから…兄さん! イオ! 行くよ!」

 ミスティオとイオは互いに鼻息をかけて顔を背けた。
 エレニオルが右手を前に出し、呪文のような、美咲にとっては聞き慣れない言葉を呟く。すると、それぞれの周りに薄いヴェールが発生し、包み込む。
 例えるなら、シャボン玉の中に入れられたような、そんな光景だ。

「さて、ここからは時間との勝負だよ。水の中は移動できるけど、酸素はどんどん薄くなっていくからね。今から海に入って、酸素が保つのは三時間から四時間。その間にミレーネを探そう」

 全員が無言で頷いた。
 そっと足を前に踏み出すと、水はヴェールに道を譲っていく。ある程度進み、美咲が海面を見上げると陽光を受け光のカーテンが目視できた。その美しさに、一瞬目的を忘れそうになってしまう。

「とりあえずはアヤメが示した、ミレーネの居場所付近まで行こう。そこまでは速度を上げで自動で移動させるから…美咲は不安なら目を閉じておいで」
「はい」

 どういう動きをするのか予想は出来ないが、美咲は船酔いや車酔いをしやすい体質だ。ここはエレニオルの言う通り、目を閉じておいたほうが良いと判断し、そっと目を閉じた。
 直後に、ジェットコースターが降下するときのような、僅かな浮遊感が体に伝わる。高速で海の中を移動しているからだろうか、ぶくぶくとあぶくの音だけがヴェールの中に響く。

「ん? ね、ねえ! エレニオル、止めて!!」
「え?!」

 高速で動いていたため、声がくぐもってしまいエレニオルの反応が遅れた。
 声の主はイオだ。美咲は薄っすらと目を開けた。

「今、何か人みたいなのがいたの!」
「人みたいなって…それって」
「そう! 絶対人魚だよ。ちょっと戻って! あっちの方向!」

 考えている間にもどんどん酸素は薄くなっていく。
 こんな海中に人が漂っているのは普通に考えておかしい。とすれば、人魚である可能性は高い。
 エレニオルはイオが指差す方向へ進み、少し速度を落として辺りを注視した。
 美咲は薄っすらと目を開けたまま、下を見る。そこに広がっていたのは、光の届かぬ深海の闇。
 ぞくり、と背中が震える。あまり深く考えてはいけないと思うほどに、視線は海底へと向いてしまう。

「…い、…た…たい!」

 その時、僅かに声が聞こえて、イオは「しっ」と口に指を当てて、止まるよう合図を送った。
 両耳に手を当て、音の方角を探ると「こっち!」と一人で進んでいく。
 イオを先頭に向かった先は、ゴツゴツとした大きな岩がいくつか並んでおり、ゴミが絡まっていた。
 そしてその真中には、長い桃色の髪を振り乱し、必死に岩に絡まったゴミに挟まる尾ひれを外そうとしている人魚がいた。

「マジでいたな…」
「イオ、お手柄だね!」
「動体視力と聴力が人間のソレじゃねぇな」
「陸上ったら覚えてなさいよ、アンタ」

 人魚は一同の存在に気付いていないようだ。
 そして三人にはもう一つ気付いていないことがあった。

 三人の周囲のどこにも、美咲の姿がなかったのだ。

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第五話 おババさま

第五話 おババさま

「腹が減っては戦は出来ぬって言うしね~」

イオはそう言いながら、先程渡されたばかりの、まだわずかに温かいパンを齧っていた。

「もう食ってんのかよ…」

その姿を見て、ミスティオが呆れたように言う。
美咲たちは、シュルムプカとフレムランカの国境付近に住んでいるという「おババさま」に会うため、馬に跨り幼少期おババさまには世話になったという、エレニオルとミスティオの記憶を頼りに彼女の家に向かっていた。
当然、美咲に乗馬の経験はない。イオとミスティオは万が一戦闘になった際、即戦闘態勢に入れるよう、一人一頭の馬に乗っている。残るはエレニオルしかいない。美咲はエレニオルの前側に座り、馬に揺られていた。

「おババさまの家までは、馬でどのくらいかかるんですか?」

慣れぬ乗馬のため、必死に馬のたてがみにしがみつく美咲が問いかける。

「…兄さん、わかる?」
「わかるわけねーだろ。最後にババアの家に行ったの、何年前だと思ってんだよ」
「そうだよね…。フレムランカまでは馬を走らせて二日くらい…かな。多分。おババさまの家は国境付近だから、一日半かかるかかからないかくらいだと思うよ」
「わ、わかりました」

美咲は変わらずたてがみにしがみついている。その様子を見たエレニオルが、おかしそうに笑った。

「美咲、それだと馬が走りにくいから。僕にもたれかかるといいよ」
「でも…」

異性と乗馬するというシチュエーション自体、美咲にとっては初めてのことだ。異性として意識していない相手であろうとも、恥ずかしさから美咲は俯く。
しかし勇気を出してエレニオルの胸に背中を預けると、途端に馬上でのバランスが良くなった。

気がつけば小川に立ち寄っているところであった。どうやら美咲は馬に揺られて眠っていたようで、今は馬の休憩中なのだそうだ。

「あ、美咲! ちょうどね、パンを温めてたところだよ。あとスープも」
「イオちゃん…ごめんなさい、私眠っちゃって…。エレニオルさんとミスティオさんは?」

寝ぼけ眼をこすりながら、美咲はイオに尋ねた。

「エレニオルは焚き火に使う枝を集めてくるって。ミスティオはもっと食べ物を探してくるみたいだよ」
「あの…私、何も手伝ってなくて…、寝てて、ごめん…ね?」
「いいのいいの。ご飯食べ終わったら、みんなでテント設置しよ! そのときに手伝ってくれたらいいから」
「わかりました」

イオは簡易的な調理道具でパンとスープを温めている。日が暮れ、少し肌寒い頃だ。パチパチと音を立てる焚き火の暖かさが気持ち良い。
しばし待つと、森の奥から大量の枝を抱えたエレニオルと、きのこや果物を持ったミスティオが姿を見せた。皆で食事をしながら、焚き火を囲む。

「おババさまかぁ、二人から話を聞いたことしかないから、どんな人なのか凄く楽しみ!」

イオは口に一つ、右手に一つ、左手に一つ、パンを持ち必死に食らいついている。
そんなイオを冷ややかな目で見ながら、ミスティオは焚き火に数本、枝を投げ入れた。

「別にただの口うるさいババアだけどな」
「小さな頃、悪戯して怒られたのを思い出すよね」
「あー、ババアが大事にしてた石ころだろ。占いに使うやつな。そういや、隠した時にこっぴどく叱られて、二人でたんこぶ作ったな」
「エレニオルさんがたんこぶ…ふふ」

今の彼の性格からは想像ができず、美咲はぷっと吹き出した。

「そういえば、土産は何持ってきたんだよ」
「以前フラムランカから取り寄せて、僕が念入りに浄化したお酒だよ。おババさまの占いや祈祷に使えるからね」

そう言って、エレニオルは懐から小さな瓶を取り出した。透明なガラスに入れられたそれは、一見水のようだが、エレニオルがそうだと言うのなら、中身は酒なのだろう。

「それならババアも喜ぶかもな。いい土産じゃねえか」
「兄さんは? お土産、何持ってきた?」
「別に何も用意してねえけど」

エレニオルとミスティオが沈黙した。イオが「はあ」と呆れてため息をつく。

「あんた、助けてもらった恩があるのにお土産もないなんて常識なさすぎじゃないの?」
「土産とか、プレゼントとか考えるの苦手なんだよな…。薪割りとか、肉体労働でもすりゃいいだろ。ババアは腰悪いからな」
「脳筋的思考ね」
「言ってろ」

食事を終えると、皆で協力してテントを設置した。
美咲は子供の頃の学校行事・林間学校を思い出すが、よくよく考えればその時も上手くテントが晴れず皆の足を引っ張っていた。ずんと心が重たくなり、憂鬱な気分になった。
ミスティオとイオが交代で焚き火と周囲の見回りを行うことになり、エレニオルと美咲はそれぞれ別にテントに入り、ブランケット一枚を腹にかけて、長旅の疲れもありすぐ眠りについた。

翌日も馬は駈ける。
左右を木々に囲まれ、むき出しの地面がどこまでも続く山道に入って、どのくらいの時間が経っただろうか。
ふいに、エレニオルが馬を止める。

「確かこの辺りだったね」
「え?」

なんのことかわからず、美咲は首を傾げ辺りを見渡した。周囲は何も変わらず森が続くだけで、特段変わったこともなければ、建物らしきものもない。

「ここにおババさまの家へ通じる道が封じられているんだ」

美咲の心を読むかのようにエレニオルがにっこりと笑い、鬱蒼と茂る草の下に根を張った木を指差した。殆ど消えかかっているが、小さくバツのマークが有る。それは本当に僅かなマークで「ここに印がある」と言われても、よくよく見なければわからない程に薄く小さい。

「じゃ、お願い」

イオはミスティオにとってはそれが当然なのだろうか、エレニオルに解除を頼むと、彼は印のようなものを結び短い呪文を唱えた。すると、これまでの森に並行した道とは別の方向へ向かう道が姿を現す。美咲が驚く間もないうちに、一同は開かれた道に馬を進ませた。

「……」
「どうしたの? エレニオル。難しい顔しちゃって」

封印を解除してから黙りこくっているエレニオルを不審に思い、イオが問いかける。

「いや…封印の感じがいつもと違ったから」
「ふーん…? 私は魔法が使えないからわからないけど、違和感みたいなものがあったってこと?」
「そうだね…。まあ、僕が解除できるようにはしながらも、封印の中身を変えることもあるだろうし、ほんの僅かな違和感だから問題はないと思う。美咲、もうすぐ到着するからね」
「あ、はい…」

しばらく馬を走らせると、小さな小屋が見えてきた。木製で一階建ての平屋。まるで童話に出てくる魔法使いの家のようだと、美咲は思った。
馬を降りて駒繋ぎに繋ぎ、ドアの前に立つ。エレニオルも、ミスティオも、少し緊張しているのだろう。表情が硬かった。

コンコン…─

控えめにノックをすると、ドアはすぐに開いた。立て付けが悪いのか、ギィィと蝶番が低い悲鳴のような音を立てる。

「……」
「え…あ」

ほんの少し開いたドアの隙間から顔をのぞかせているのは、少女だった。
部屋の中が暗いため、外の明かりからではその出で立ちはよく見えない。
エレニオルが困惑している様子からして、顔見知りではないようだ。

「…誰?」

少女が小さな声で問う。愛らしい声ではあったが、どこか冷たさを感じる声だ。
翡翠色の瞳が、上目遣いでエレニオルを睨みつける。

「こんにちは、僕はエレニオル。はじめまして…かな」
「エレニオル…?」
「おババさまに会うためシュルムプカから来ました」
「おババさま…」

少女はエレニオルの言葉を、ただオウム返しするだけだ。視線を落とし、何か思案している様子を見せたあと、少女は小さな声で、けれどもハッキリと「入って」と言った。
小屋の中には何本ものロウソクが灯されており、それを照明代わりにしているようだ。
美咲たちを中に招き入れた少女は、くるりとこちらを振り向く。薄ピンクの襦袢に、細身の赤い花柄の袖、赤いスカート。そういえば、イオも赤い服を着ている。フレムランカの人間は、赤を好むのだろうかと美咲は考えた。

「エレニオル…。そっちは、ミスティオ」
「そう。君は?」
「私は…アヤメ」

自らをアヤメと名乗った少女は、名前の通り菖蒲に似た紫の髪色をしている。後ろの髪は肩につくくらいのボブだが、サイドの髪は長く、耳の上で鈴のついたリボンを使って結われていた。
アヤメが少し動くと、その鈴は控えめでありながらも、チリチリと鳴り主張する。

「アヤメ…、よろしくね。こちらはシュルムプカの側仕えでフレムランカ出身のイオ。そしてこの子が…ええと、説明は難しいのだけど、美咲だよ」
「あ、あの…佐倉美咲です。よろしくお願いします」
「…さくら、みさき?」
「美咲が名前で…えっと、好きなように呼んでもらえたら…」

先程から表情の変わらないアヤメに、美咲は少し困惑気味だ。

「ねえ、アヤメちゃん。おババさまは何処にいるのかな? 私達、会いに来たんだけど」

子供の扱いに慣れているのか、イオが少し前かがみになり、目線の高さをアヤメに合わせた。
アヤメはイオの目をじっと見て、淡々と答える。

「おババさまは死んだ」
「…えっ?!」
「!!」
「そんな…」

アヤメの瞳には、困惑も、悲哀も、動揺も、一切の感情が見られない。
幼少期のエレニオルとミスティオを救った「おババさま」は「死んだ」と、ただなんの感情も込めずに言い放ったのだ。

「…ま、まあ…ババアだったしな、老衰だろ。エレニオル、逆に考えてみろよ。今でもあの調子でピンピンしてたら恐ろしいぜ」
「あ…ああ、そうだね。僕もそう思うよ。正確な年齢は知らないけれど、かなりご高齢だったようだし。そうか…お亡くなりになったんだね…。葬儀にも、墓参りにも来ない僕たちのこと、怒ってるだろうね。げんこつされるかな」
「かもな」

エレニオルとミスティオは笑っていたが、寂しさという感情を隠しきれていない。

「…それで? おババさまに、何の用」
「ああ、そうだった。シュルムプカの海にミレーネという名前の人魚がいるんだ。彼女に会いたいのだけど、海は広いから…闇雲に探しても、まず見つからないだろう? 占いで何かヒントを得られたらと思ったんだ」
「でも占いが出来るのは、そのおババさまなんでしょ? どうするの?」
「そうだね…はあ、振り出しに戻る。か…」
「墓参りでもして帰ろうぜ」

困り果てた様子の一同に、アヤメは淡々と言葉を投げかける。

「その心配はいらない。占いの仕方、祈祷の方法、おババさまから教えてもらった」
「本当に? それは助かった…、その前におババさまのお墓参りが出来たら嬉しいのだけど」

その言葉を聞き、初めてアヤメは困ったような表情を浮かべた。どうしたのか、とミスティオが尋ねると、アヤメは切れ切れに話し出す。

「お墓…ある。けど墓参りはしないほうがいい」
「なんでだよ」
「火葬してもおババさまは燃えなかった。だから土葬にしてある。けど…」
「けど? 歯切れが悪ぃな」
「……。とにかく、しないほうがいい。手を合わせるだけなら、こっちにして」

アヤメは部屋の奥に飾ってあった、まるで氷のような透明感を放つ宝石を指差す。
「あれは」とエレニオルが口を開くと、ミスティオは軽い反応を見せた。その宝石─水晶玉─は、幼い頃に悪戯で隠して、二人がおババさまにげんこつをもらった、あの石だった。
言われるがまま、エレニオルとミスティオは、そしてイオと美咲も彼女の安らかな眠りを願い、手を合わせた。

「人魚…獣人の類を探すこともおすすめしない」
「それには何か理由があるんですか?」

ずっと皆の後方に立ち、言葉を発さなかった美咲が初めて口を開く。
美咲の存在を意識したアヤメの目がどんどんと丸くなっていった。それは気の所為でもなんでもなく、誰が見ても明らかな反応の変化だ。

「あなた…神子?」
「…か、どうかはわからないんですけど…。私に神子としての力が宿っているかどうかを確かめる方法を、その人魚の方に聞いてみようという話になっていて」
「その人魚まで死んでねえだろうな…」
「それはわからない。人魚は不老だけど不死ではないから。…安心して、人魚の場所は私が占う」

皆がホッと胸をなでおろした。

「けど対価が必要。私にも生活がある。空気を食べて生きているわけではないから、無償でというわけにもいかない」

アヤメの言うことは一理ある。おババさまが生きていればまた違ったのかもしれないが、アヤメと、エレニオル・ミスティオはたった今知り合ったばかりだ。それに、彼女の言う通りアヤメにはアヤメの生活がある。
それには質素な生活を送ったとしても、大なり小なり金は必要になってくるだろう。
エレニオルは唸ったあと、ポケットから例の酒瓶を取り出した。

「…それは?」
「フレムランカから取り寄せて、僕が念入りに浄化したお酒だよ。お清めや祈祷にいいかなと思って」
「それでいい。いや…それがいい」
「僕はそれで助かるけど…構わないのかい?」
「構わない」

アヤメは手を差し出す。エレニオルはその小さな手に、酒瓶を渡した。
酒瓶を怪しげな薬品の並ぶ棚にしまうと、アヤメはシュルムプカの地図を机の上に広げた。
先端の尖った紫色の石がついたペンダントを取り出し、地図の上を入念に移動させていく。
美咲たちは緊張の面持ちでそれを眺めていた。とある海上を移動した時、そのペンダントがぶるぶると震え始め、アヤメは「ここ」と簡素な言葉で告げた。

「この周辺にいる。…もっともそれは「現在」の話であって、明日には移動しているかもしれない。人魚はあまり広範囲を移動しないけど、行くなら早いほうがいい。この人魚…真面目な性格だけど、後天的な…何か事情があって気まぐれだから」
「ありがとうございます、アヤメさん」
「…礼はいい。少し休憩させてあげたいけど、とにかく早く向かったほうがいい」
「わかった。ありがとう、アヤメ。また今度、おババさまに会いに来てもいいかな?」
「さっきも言ったけど、墓参りはしないほうがいい。でも、この水晶に手を合わせるくらいなら。…美咲」
「は、はい!」
「あなたにとっては…おババさまは面識がない相手。けれど手を合わせてくれてありがとう…イオも」
「いえ、そんな」
「いいのいいの。おババさまの話は、エレニオルとミスティオから聞いてたから。亡くなってたのは残念だけど…手を合わせられてよかった」
「うん…」

馬の体力が心配ではあったものの、アヤメが馬に食事と水を用意したため、少しは休憩できたようだ。エレニオルは駒繋ぎから馬を離すと、手綱を持って馬に乗った。
美咲を乗せようとしたエレニオルに、アヤメが背伸びをする。背伸びをした所で、背の低いアヤメの言葉はエレニオルに届かないと思われたが、小さいながらも存在感のある声と言葉に、エレニオルは動きを止めた。

「エレニオル。おババさまの死は不審な点がある。老衰ではなくて、恐らく…」
「…?!」

その言葉の続きに驚愕し、エレニオルは思わず美咲へ向けて伸ばしていた手を離した。
当然、美咲は地面に尻もちをつくことになり、きゃあと小さな悲鳴を上げる。

「いったた…」
「ご、ごめん…美咲。アヤメ、そのことに関しては僕も思う事があるから、僕なりに調べることにするよ」
「…うん。それじゃ」

アヤメに見送られ、美咲たちは再び来た道を戻る。
封印のマークがある木のところに出ると、自動的に今来た道には封印の魔法が発動し、固く閉ざされた。

(この封印の違和感…、アヤメの力が加わっているから? それとも…)

エレニオルはもう一度マークをじっと見つめ、シュルムプカへ向かった。

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第四話 出立

 美咲はイオの案内で、無事元いた部屋に戻ることが出来た。
 ベッドに腰掛けた途端、凄まじい眠気と疲労感に襲われる。今日は様々な事が起こったせいで、自分が思っているより心身ともに疲れているのだろう。
 洗面所へ行き、寝支度を整えると、早々にベッドへ入った。

「イオちゃん、おやすみなさい」
「ちゃんなんかつけなくていいって。イオでいいよ」
「で、でも…」
「普段からイオとか、ムカつくけどじゃじゃ馬とか言われてるから、ちゃんって呼ばれるとくすぐったいんだよね。まあ、とにかく今日はもう休んで。大丈夫、私がちゃんとついてるから」
「う…ん…」

 イオと話しながら、美咲は既に半分夢の中だ。間もなく、すうすうと寝息を立て始めた。
 イオは椅子に座り、少し頭を前に傾けて腕を組む。そんな姿勢ではあるが、当然周囲への警戒は怠らない。美咲と年齢の変わらない少女ではあるが、これでも戦人としての性質が強いフレムランカ出身だ。感覚はとても鋭く、僅かな動きや音でも見逃さないという、天賦の才能を持っている。
 穏やかに流れていた空気の流れが変わった。

「う…」

 原因は美咲にあった。悪い夢でも見ているのだろうか、掛け布団を握る手は強く握りしめられ、眉間には皺がより、苦悶の表情を浮かべている。

「せん、…ぱ…」
「?」

 イオは美咲の顔を覗き込んだ。その唇が震えながら「せ、ん、ぱ、い」と動く。しばらく唸った後、美咲は再びすぅと小さな息を立てて寝入った。
 しかし次の瞬間、美咲はガバリと凄まじい勢いで起き上がる。あわや頭突きされるところであったが、イオの反射神経はずば抜けており、簡単にそれを回避した。

「美咲、うなされてたけど大丈夫?」
「はっ…は…」

 息を切らせる美咲の額は、汗でびっしょりだ。

「水、飲む?」
「…はい」

 イオはサイドテーブルの上に用意してあった、水の入ったポットからグラスに水を注ぎ、美咲に手渡した。受け取った美咲は、ごくごくと大きな音を立てて飲み干し、息を整える。

「先輩って言ってたけど…どうかしたの? 話したくないならいいけど」
「先輩は…。先輩は、私のせいで事故にあったんです」
「…? よく話が見えてこないんだけど。事故って?」

 ぽつりぽつりと美咲は立樹の事を話し始めた。立樹に対して憧れがあることは隠し、電話中の事故についてのみ話したが、聞き終えたイオはニヤッと口の端を上げる。

「なるほど、なるほど。美咲はその立樹先輩のことが好きなわけね」

 ぼんっとわかりやすく美咲の顔が赤くなる。

「ななななな、ちち、違います! どうしてそうなるんですか!」
「あはは、わかりやすすぎ! でも安心した。神子さまと言っても、やっぱり女の子だよね」
「……」
「私もね、最近好きな人が出来たんだぁ…」

 イオは頬に手を添え、うっとりとした瞳で語りだす。恋愛話で意気投合とまではいかないものの、美咲もまた、イオが年相応に恋愛を楽しむ少女なのだと知って安心した。

「あの、イオちゃん」
「イオでいいって」
「…イオ…ちゃん」
「…は~、いいよ。しばらくはそれで」
「おババ様って、どんな方か知ってますか?」

 イオは椅子に深く腰掛け、腕と足を組んでうーんと唸った。

「私はおババ様に会ったことがなくて。エレニオル達から聞いた話になっちゃうんだけど…。知る人ぞ知るって感じの占い師みたい。あまり表には出てこないタイプのね。フレムランカって、占いとか祈祷がとても盛んなの。お祭りとかね。詳しくは知らないんだけど、エレニオルとミスティオが小さな頃お世話になったみたいね」
「…あれ?」
「え?」
「あ、あの。ごめんね、イオちゃんってミスティオさんにじゃじゃ馬って呼ばれてる?」
「そう! あのバカ、私のことじゃじゃ馬って呼ぶの!!」
「あはは…。おババ様の所に向かう二日後に間に合うかは微妙だって、エレニオルさんが言ってたから」
「ああ、それね。穢れの影響で凶暴化した野獣を退治するって仕事だったの。数は大したことなかったし、それに最近入った新人の側仕えがすっごく優秀でね! 強いし、かっこいいの! それにねそれにね」

 イオの話が再び恋愛話に戻る。椅子から身を乗り出し、もう立っていると言っても良い。
 新人の男性側仕えが非常に優秀で、戦闘能力も申し分なく、あっという間に野獣の退治を終えたのだという。涼し気な目元がクールだの、無口なところがミステリアスだの、イオはひとり盛り上がる。
 しかし、彼の力があったとはいえ、あの程度なら私一人でも余裕だったと加え、得意げな顔をした。
 その男性側仕えは退治した野獣の後処理を行うため、現場に残っており、イオは彼の活躍やかっこよさを、早く友人の神官に話したくて走って帰ってきたのだという。
 一体どれほどの距離を走ったのかはわからないが、凄い体力だと美咲は感心した。

「そ、そうなんだ。じゃあ私はもう寝ます…」
「え~、これからがいい所なのに! 今度続き聞いてね?」
「はい」
「絶対だよ? 絶対!」
「う、うん」

 イオは何度も美咲に念を押すと「約束ね」と笑って再び椅子に座った。

「あの…イオちゃんはベッドで寝なくていいの?」
「ああ、大丈夫大丈夫。マクシェーン老師から美咲のことを任されてるし、一晩や二晩寝ないくらい大丈夫だから。フレムランカ出身だからね、こう見えて結構タフなのよ」
「…そっか。それじゃあ、おやすみなさい。疲れたら休んでね」
「ありがと。おやすみ、美咲」

 イオが側にいることに安心し、美咲はすぐ眠りにつき、もう悪夢を見ることもなく朝を迎えた。
 部屋でとる朝食もとても質素なものだったが、元より少食な美咲には丁度良いくらいだ。「相変わらず足りないわ」とイオは文句を言って、既に空になったコップを何度も恨めしそうに持ち上げては戻す。
 ミスティオとイオは美咲とエレニオルの護衛として、鍛錬に励むとのことで各々が訓練に向かい、美咲はエレニオルの側で彼の仕事を見ていた。
 次々と運ばれてくる書類に目を通し、判子を押したり、指示を出していく。美咲にとっては馴染みのない言葉ばかりで、全く意味がわからなかった。

 やがて、やはり馴染みのない、変わった模様の書かれた紙が束で運ばれてきた。エレニオルは「ふう」と息を吐いてから、一枚一枚に手をかざして瞳を閉じる。
 一枚にかかる時間こそ、そこまで長くはなかったものの、紙の束全てに手をかざし終える頃、エレニオルはひと目でわかるほど疲弊していた。

「エレニオルさん。それは何をするものなんですか?」
「ああ…この紙は水の浄化を簡易的に行うものなんだ。兄さんの言葉を借りると、言葉は悪いけど毒を浄化するために、僕が浄化のエネルギーを入れているんだよ。これを水の入った容器に貼っておくと、穢れの進行を遅らせたり、軽い穢れなら浄化することが出来るんだ」

 苦しそうに呼吸をしながらエレニオルが笑う。

「そう…なんですか」
「君が…あ、いや。なんでもない。今はこの話はやめよう。ずっとそこに座っていて疲れただろうから、休憩にしようか」

 エレニオルは椅子から立ち上がり、うんと伸びをした。凝り固まった腰や肩が、パキッと小さな音を立てる。
 美咲とエレニオルは、聖域の外に出て、近くの川へ向かった。そこは美咲がはじめてエレニオルとミスティオに出会った場所だ。
 エレニオルは一本の大きな木の下に座り、目を閉じた。そよそよと風が吹く。

「……」
「……」

 特に会話をすることもなく、二人はただ水のせせらぎと風のささやきに身を委ねていた。

「僕はね、美咲」

 ふいにエレニオルが口を開いた。

「この国がとても好きなんだ。穏やかで…優しく…、信心深く思慮深い。…けれど今は水の穢れのせいで、シュルムプカに住む人々の性質まで僅かに変わり始めている。ああ、皆が皆ではないよ。でも…争い、競い、奪い合うような事が一部で確かに起きているんだ。それがとても悲しくてね」

 美咲は言葉に詰まった。こんな時、どのような返答をすれば良いのか、わからないからだ。

「僕がマクシェーンに助けられ、おババ様と出会い、神官になれたことにはとても感謝しているよ。生まれつき、浄化の能力を持っていたことも。小さな頃は、それを恨んだこともあったけどね」
「どうして恨んだんですか?」
「後でおババ様と会った時にでも話そうかと思っていたけど…いい機会だから話そうか。浄化の能力は時として悪用されることもある。浄化と穢れは紙一重でね、浄化する時は清らかなイメージを持って水や紙にエネルギーを入れるんだけど…悪意を持ってエネルギーを入れれば、たちまち穢れた水の出来上がり。それを利用しようとする大人が、過去にはいてね。穢れた水は、人を死に至らしめることも可能だから。人の体の殆どは水で出来ている。血もそう、血を穢せば…人は死ぬ」
「そんな…」
「僕と、僕の両親、そして兄さんはそんな大人たちから僕を必死に守ってくれたよ」
「…聖域の方は助けてくださらなかったんですか?」
「僕が子供の頃は、まだシュルムプカの水はそこまで穢れていなかったんだ。ここ数年だよ、一気に穢れが進行したのは。浄化する強い能力はマクシェーンが持っていたし、悪用されぬためには自衛するより他にはなかったんだ」

 エレニオルの生い立ちに、美咲は多少の同情を覚えた。

「マクシェーンだけは僕を守ってくれようとして、聖域に入れてくれようとしたけれど…当時のマクシェーンの位はまだ高くなくて、彼が唯一僕に出来たこと、それがフレムランカのおババ様の元へ僕たちを逃がすことだったんだ」
「そうだったんですか…。おババ様、占い師の方なんですよね。イオちゃんから聞きました」
「フレムランカとシュルムプカの国境にある森でひっそりと暮らしていてね。名前を聞いても教えてくれなかったから、おババ様と呼んでいるんだけど…。おババ様は、僕の能力の一部を封印したんだ」
「え?」

 そう言って、エレニオルは美咲に左手を差し出す。美咲は首を傾げた。その手は特に何か損傷や怪我があるわけでもなく、強いて言えば、男性にしてはやや細い指、といったところだろうか。

「見ていて」

 エレニオルは目を閉じ、左手をかざした。途端に、左手の甲に模様が浮かび上がる。当然、美咲が初めて見る模様だった。

「ッ!」

 エレニオルはすぐに目を開き、左手を右手でゆっくりさすった。

「右手に浄化を行う能力が、左手に穢れを与える能力が宿っていてね。左手が穢れを生まないように処置してくれたんだ」
「よくわからないんですけど…凄い方なんですね、おババ様は」

 緊張の面持ちだったエレニオルは、息を吐きながら笑った。

「ははっ、凄いは凄いんだけど、本当に厳しい人でね。僕は兄さんと違って体を動かすことが苦手だから、護身術を教えてもらっている時もなかなか上手くできなくて、何度もおババ様からげんこつを食らったよ。子供ながらに納得出来なかったなあ。運動神経なんて生まれつきのセンスもあるのにって思ってたよ。言えなかったけど」
「ふふっ、私も運動音痴なので気持ち、わかりますよ。私はいつも先生に怒られてばかりで…。小さな頃なんて、みんなはとっくに帰ってるのに、鉄棒で逆上がりが出来ないからって、出来るまでは帰しません! って言われたんです。もう、泣きながら練習しましたよ」
「あはは、逆上がりか。僕も苦手だよ。他にも…」

 二人は運動音痴エピソードに花を咲かせ、ようやく笑顔を灯らせた。
 和やかな雰囲気のまま休憩が終わり、あっという間にフレムランカへ向かう日を迎えた。

「エレニオルさま、忘れ物はございませんか」

 マクシェーンが心配そうに尋ねる。エレニオルは服のポケットに手を当て、ぽんぽんと軽く叩いていく。

「うん…、護身用の短剣も持ったし…おババ様へのお土産も持ったし…」
「ミスティオさまは如何ですかな」
「ガキじゃねーんだぞ、マクシェーン。…忘れもんはねえよ」
「イオ。エレニオルさま、ミスティオさま、そして神子さまにご無礼のないように。その御体、命に変えてもお守りするのだ、いいな」

 立ち会わせたデニルがイオの肩を押さえながら言う。イオは面倒くさそうにハイハイと返事をした。

「イオ、携帯食と非常食は十分に持ったか? お前は腹が減ると途端に動きが鈍くなる。多めに用意していきなさい」
「ちょっと、パパ! 私が食いしん坊みたいなこと、クレッツォの前で言わないでよ!」
「クレッツォ?」

 ミスティオが聞き慣れない名前に首を傾げた。

「そうなの、実はね…ごにょごにょ…、凄く強くてね…コソコソ…かっこいいの! きゃーっ!」

 内緒話をしているつもりなのだろうが、地声が大きいため全て筒抜けだった。チラチラと視線を送る先に立っていたのは、涼し気な目元でポーカーフェイスな男。彼が、先日イオの話していた側仕えの男性なのだろうと美咲は理解した。

「お前に惚れられる男を心底同情するぜ」
「は? あっ、やきもち妬いてるの? モテないもんね~、ミスティオは」
「…は?」
「あーダメダメ、私ミスティオみたいなチャラチャラしたのはタイプじゃないのよね」
「奇遇だな、俺もお前みたいなじゃじゃ馬はタイプじゃない。むしろ嫌いな方だ」
「なんですって?!」
「あ?!」

 相変わらずくだらない言い争いをするミスティオとイオを横目に、エレニオルと美咲は出立の挨拶をマクシェーンと他の神官と交わしていた。

「大体、お前俺より足太いんじゃねえの? 本当に女か怪しいもんだ」
「はんっ、あんたの鍛え方が足りないだけでしょ!」
「ふ・た・り・と・も! 行くよ!」

 エレニオルの大きな声に、ミスティオとイオは口論をやめたが、未だ交わる視線に火花が散っている。
 果たして何事もなく辿り着けるのだろうか。一抹の不安を抱きながら、美咲達は聖域を後にした。

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第三話 薄い毒

 用を足し終えたはいいものの、美咲はこの広い聖域の中ですっかり迷子になっていた。どこかでポータルに乗り間違えたのだろうが、それがどこであったのかももう思い出せない。他の神官とすれ違うこともなく、焦燥感にかられながらそれでも歩みを進めた。

「うぅ…私、方向音痴なのに…」

 やはり付き添ってもらえばよかった、と先程の自分の言葉を後悔した。
 先程案内された部屋と似たドアを見つけては、ドアノブをガチャガチャと回す。しかし、鍵がかかっているか、空室が続くばかり。
 しばらく待ってみたが、やはり他の神官も来ず、ならばやはり、歩み続けるしかない。
 いくつめかのポータルに乗ると、一直線の廊下が続く部屋に出た。美咲の部屋がここでないことは明らかだが、戻っても仕方がない。美咲は廊下をゆっくり進み始めた。
 中頃まで進んだ、その時…─

「ちょっとアンタ! ストップ!」

 突如背後から聞こえたのは、若い女の声。美咲はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
 そこに立っていたのは、赤い髪をサイドでお団子にした、美咲と年齢の近そうな少女だった。少女は怒っている様子で、両腕を腰に当てて、深緑の瞳で美咲を睨んでいる。

 いきなり現れた少女に驚き、美咲はつい少女を上から下までじっくりと眺めてしまった。上半身は和風の紅い着物風のトップスで、首元には目の色より明るい緑のストールが巻かれている。
 ボトムスとの間には、うっすら割れた腹筋と小さなへそ。そして黒いスパッツから伸びる太ももは、程よく筋肉で引き締まっており、とても健康的な印象を受けた。

「あんた、見かけない顔ね。この先に何があるのか、知らないわけじゃないでしょ?」
「えっと…その、知らないんです。ごめんなさい」
「嘘つかないでよ! 見たことないけど、ここの神官でしょ?」
「こ、これは違うんです」

 美咲は、先程風呂を借りた際に、鉄紺色の神官であることを証明する服を借りている。故に、少女は美咲をこの聖域の神官だと思っているようだ。

「私、佐倉美咲っていうんです。神官ではないですし…怪しい者では…」
「さくら…みさき? 怪しい人が自分は怪しい者ですって言うわけないでしょ。ちょっと着いてきなさい!」

 少女は美咲の腕をぐっと掴むと、廊下の先にあるポータルには乗らず、元来たポータルに乗る。美咲を怪しんでいる様子だが、その心配よりも人と会えた安堵感のほうが勝った。
 早歩きの少女にペースを合わせるのは、少々辛かったが、やがて目の前に大きな扉が姿を見せた。
 アーチ状のドアであることは他の部屋と変わらないが、両サイドに剣や槍の彫像が飾られており、他とは違う雰囲気を感じられる。
 少女はバンッとドアを開くや否や、大声を張り上げた。

「パパ! 儀式の間の前に変なやつがいたの!」

 部屋の中に居たのは、神官よりも重装備を身に着け、腰に剣や槍を携えた男女であった。彼らの視線が少女に集まる。

「イオ! ドアは静かに開けなさいと何度言ったらわかるんだ、馬鹿者!」
「ひゃっ…ご、ごめんなさい、パパ。で、でも! 不審者を連れてきたんだから!」

 少女─イオという名前なのだろう─がパパと呼んだ筋骨隆々の中年男は、視線をイオから美咲に移すと、その鋭い瞳はどんどん丸くなっていく。

「み、神子さま!」
「…神子さまぁ?」

 イオと呼ばれた少女は首を傾げて、美咲を見つめる。その瞳は、パパと呼ばれた中年男と同様に丸みを帯びていく。

「さくら、みさき…。確かにこの辺りでは聞かない不思議な名前だよね…、ってことは、え、本当に神子さまなの?」
「ち、違います! 私は神子なんかじゃ」
「じゃあ、何なの? ここにいる理由は? 神官でもないのに、どうして神官の服を着て聖域内をウロウロしていたの?」
「こら、イオ! …申し訳ございません、神子さま。私はこの聖域で側仕えをしております、デニルと申します。それは実娘のイオ。娘の不躾は全て私の責任でございます。罰するのであれば、まずは私から」
「い、いえ。罰するだなんて…そんなこと考えてないですし、そんなにイオさんを叱ったりしないでください。私が自分の身分を証明出来ないことは事実ですから…。あの、イオさん。私は、二日後にオババ様に会うのだと、エレニオルさんとお話しました」

 イオの丸くなった目が、オババ様という単語に反応し、更に丸くなっていく。

「え? オババ様って…、どうして?」
「私に神子としての力が宿っているかを確かめる、その方法を聞きに行くのだと…」
「そうなの。じゃあ、まだ神子さまって決まったわけじゃないのね。ねえねえ、美咲って呼んでいい?」
「えっ、あ、はい」
「イオ!」

 デニルがイオの腕を掴もうと、巨大な体躯には似合わぬ速度で迫る。
 イオはそれをヒョイッと避けると、小さな赤い舌を出した。

「私は神子さまと呼ばれるより、佐倉か、美咲と呼ばれたほうが落ち着きますから…」
「ほーら、ね? パパ。改めて…私はイオ! よろしくね美咲」

 イオの笑顔はまるで夏にさんさんと輝く太陽のようで、その笑顔につられて、美咲の顔にも笑顔が咲いた。ただ一人、イオの父であるデニルは硬い表情のままであったが、イオと美咲が話す様子を見て、一応の納得はしたようだ。
 イオの背後から、デニルが「失礼な態度は取らぬように」と釘を刺すと、イオは再びぺろっと赤い舌を出しながら「はーい」と答えた。

「美咲、ご飯は食べた?」
「まだです。部屋で食べようと思ってたんですけど…、お手洗いに行ったら迷子になってしまって」
「ああ、それであそこにいたのね。確かに聖域内は慣れない人からしたら迷うかも…、通りで。部屋まで私が案内してあげる!」

 言うが早いかイオは美咲の手を取り、ずんずんと歩き出す。彼女の歩幅は大きいようで、美咲は必死に足を動かした。

「それで美咲、部屋の特徴とか覚えてる?」
「え、と…アーチ状のドアだったことしか」
「この聖域のドアは殆どアーチ状。他には? 部屋の内装とか」
「ベッドと…木製のテーブル、椅子がありました」

 一生懸命部屋の内装を思い出すが、これといった特徴がない。

「んもー! そんなのどの部屋も一緒だって。というか、神子さまだって言われてるのに、そんな普通の部屋に通されたの? まぁこの聖域内にスイートルームなんてないしどれも質素な…あっ、こんなこと言ったらまたエレニオルに怒られそう。あははは!」

 大きな口を開けて笑うイオを、美咲は羨ましそうに見つめ、緊張が和らいだ。ぎゅっと手を握ったまま、イオは「そうだなぁ」と歩みを進める。しかし、しばらくするとピタリと足を止めて口を開く。

「多分、この時間ならエレニオルもミスティオも食堂でご飯食べてると思うんだよね。そこ行こうか? 美咲が部屋に戻らないとなると、神官から連絡もあるだろうし、大丈夫だよ。お腹空いてるでしょ?」

 返事の代わりに、美咲の腹がぐぅと鳴った。顔を赤くする美咲を見て、イオはまた太陽の様に笑う。

「私もお腹ぺこぺこ。行こ!」

 いくつものポータルを乗り継ぎ、角を曲がって行く。美咲には、もうどこをどう歩いたのか、わからないくらいだ。
 やがて一際大きなアーチ状のドアの前に立つと、イオはドアをノックもせずに勢いよく開け、声を荒げた。

「エレニオルー! ミスティオー! 美咲連れてきた!」
「ッ! げほっ…げほ…ッ」
「っ…てめぇ、いきなり大声出してドア開けんじゃねえ、じゃじゃ馬!!」

 突然の大声に驚いたエレニオルは口元を手で覆ってむせ返り、ミスティオも飲もうとしていた水を、驚きのあまり膝元に零していた。
 「じゃじゃ馬」と呼ばれたイオは、不快感を顕にし、拳を振り上げながら、先程より大きな声を上げる。

「じゃじゃ馬って呼ぶなあ!!」
「どこからどう見てもじゃじゃ馬だろうが!」
「なんですって?!」
「いいか? まずじゃじゃ馬じゃない女はドアを静かに開けるんだよ!」
「そういうミスティオこそ、驚いて水こぼしちゃうなんてだっさ~い。膝元濡れてますけど?」
「あ?!」
「何よ!!」

 喧嘩が始まったのかと、美咲は狼狽えながら、ミスティオとイオの顔を交互に見る。しかし、同室にいたマクシェーンをはじめとする他の神官も慌てる様子がなく、止める気配もなく、食事を続けている。
 口元をナフキンで拭ったエレニオルが、ぴしゃりと言い放った。

「兄さん! イオ! ここは女神シュルムプカ様の聖域内であることを忘れていないかな?」

 それを聞いたミスティオとイオは、バツが悪そうに互いから視線をそらす。

「チッ…」
「あ、ごめんなさい」

 ミスティオは舌打ちをした後、膝元をナフキンで拭ってからゆっくりと腰を下ろし、イオは胸の前で小さく手を組み女神シュルムプカに祈りを捧げた。

「女神シュルムプカ様…どうか私をそのお慈悲でお許し下さい…。ミスティオのせいだけどお許しください…。ところでさ、エレニオル」
「相変わらずイオは切り替えが早いね…」
「美咲が迷子になってたから、ここに連れてきたんだけど。よかったよね?」
「迷子? それはまた、どうして」

 美咲が事情をかいつまんで話している最中に、美咲の食事を取りに部屋で分かれた神官が、血相を変えて「神子さまが!」と駆け込んできた。かなり息が乱れてる所を見ると、必死に美咲を探していたのだろう。食堂にいる美咲を見ると、へなへなと座り込んでしまった。

「美咲ね、祭壇の間に通じるポータルの前にいたの。だから不審者だと思って、パパのところに連れて行っちゃった。見かけない顔だけど、神官の服着てるし」
「祭壇の間に…? 迷ってそこにたどり着くというのも、何か意味があるように思えるね」
「えー、まさか。偶然じゃない? 女神シュルムプカさまが美咲を呼んだ…とでも言うの?」
「まぁ…今日はもうその話は終わりにしよう。美咲、折角ここへ来たのだし、皆で食事をするのはどうかな?」
「そのつもりで連れてきたの」

 先程部屋で見た夢のせいか、折角だが用意してもらった部屋で一人食事をする気分でもなかった美咲にとって、イオとエレニオルの提案は喜ばしいものだった。
 普段、食事の支度や後片付けを進んで行う美咲にとって、聖域内での上げ膳据え膳はどうにも落ち着かないが、どこに何があるのかもわからず、家族という見知った顔もない今だけは、この状況に甘えることにした。

 食事の内容は質素なものであった。少し固いパン。薄いコンソメスープ。千切りキャベツと豆のサラダ。気持ち程度に添えられた、二粒の葡萄。飲み物は牛乳で、美咲は小学生の頃の給食を思い出した。

「今は水の汚染が進んでいて、作物が不作でね…豪勢な料理でもてなしが出来ず、すまない」

 不満げな顔をしていただろうか、と美咲はブンブンと首をふると慌てて笑顔を浮かべる。

「そんなことないです! このスープ、とても美味しいですよ。キャベツもシャキシャキだし…」
「そう…? なら良かった。僕たちも水の浄化の儀式は行っているのだけど、なかなかね」
「…? 神子じゃなくても、水の浄化って出来るんですか?」

 ならば「神子」の意味とはなんだろうか、と美咲は首をかしげた。

「進行を僅かに遅らせる程度の浄化はね。女神シュルムプカが神子に授ける力ほど強力なものではないし、完璧に穢れを浄化させることは出来ないんだ。そして浄化も全ての神官が出来るわけではなくて…僕と、マクシェーンだけ」
「お前が旨いって言ったスープを作るための水も、この地の水を飲んだ牛から絞った牛乳にも穢れは侵食してるぜ。軽い毒を摂取してるようなもんだ。人間ならすぐにどうにかなったりはしねえけどな」
「そう、なんですか…。あの、ミスティオさんはエレニオルさんのお兄さんなんですよね?」

 同じ血を分けた兄弟で、能力に差があるものだろうか。純粋な美咲の疑問に、ミスティオは「ああ」と答えた後、質問の意図を理解して言葉を続ける。

「あー、俺は浄化の儀式は出来ねえんだ。これに関しては生まれついての才能みたいなもんんだな。同じ時代にエレニオルとマクシェーンがいるだけでも奇跡的。だから兄弟であっても、聖域を継ぐのは浄化の能力があるエレニオルだ。俺が出来るのは穢れた水を摂取して暴走した動物の処理とか、戦闘におけるサポート全般だな」
「そ、そうですか…あの、すみません」

 ミスティオは「別に」とぶっきらぼうに返すと、固いパンを齧った。
 食器とスプーンがぶつかる、微かな音だけが部屋の中に響く。何か気の利いたことが言えないだろうか、と美咲は話題を探すが、あいにくこういった場面には慣れていない。
 薄味のスープを飲みながら考えているうち、皿の中のスープは空っぽになった。
美咲より少し早く食べ終わったミスティオや他の神官は、既にこの場にはおらず、空席も目立ち始めている。エレニオルは食後の牛乳を飲みながら、イオは葡萄を皮ごと口に放り込み、頬杖をつきながら雑談をしていた。

 他者とのコミュニケーションが苦手な美咲は、食べるのも遅い。やっと最後の一口、固いパンを口に入れると咀嚼しゆっくりと飲み込んだ。最後に牛乳を飲むと、ミスティオの言う「毒」という言葉が脳裏をかすめた。

「神子さま」

 優しく美咲に話しかけたのは、老師マクシェーンだ。彼の癖なのか、ゆっくりと長い髭を撫でながら、目を細めてにこにこと笑っている。

「今日はお疲れになられたでしょう。夜の聖域内はとても静かです故、どうぞごゆるりとお休み下さい」
「え…っと」

 部屋で見た夢のことを思い出し、美咲は思わず口ごもる。夢が怖くて眠れない、一人は怖い…なんて子供のようなことを言うのは憚られた。その様子を見た膜シェーンは、更に目を細めてイオの名前を呼ぶ。

「イオ、今宵は神子さまのお側でその御体、お守りしては如何かの」
「え、私ですか?」
「神子さま、イオは火の国フレムランカの生まれですが、今は父デニル共々、我がシュルムプカに忠誠を誓っている優秀な従者、側仕えでございます。神子さまのお側に置けば、ご不安も幾分か和らぐことでしょう」
「そういうことでしたか。任せて、美咲」

 イオは鍛え上げた力こぶを見せて、ニッと頼もしげに笑った。
 その笑みを見た安心感か、空腹が満たされたからか、美咲の口から小さな欠伸が漏れる。どうやら思っている以上に疲れているようだ。

「じゃ、食べ終わったみたいだし行こうか」
「はい。あの、失礼します。おやすみなさい」
「おやすみ、美咲。ゆっくりと休むんだよ」
「ありがとうございます」

 余所余所しい挨拶を交わして、美咲はイオと共に部屋を後にした。

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第二話 戸惑い

第二話 戸惑い

 美咲に神子としての力が宿っているのかを確かめる方法は、至ってシンプルなものだった。まず美咲の前に白いテーブルが置かれ、その上に水の入ったコップが置かれた。その異臭に、美咲は思わず顔をしかめる。

「あの…これは?」
「女神シュルムプカは神子が“穢れを払い清らかなる浄化の力を得る”という言葉を残した、と先程話したね。そしてシュルムプカで起こっている異常は水が関わっている。それが穢れ。穢れを祓うというのは、つまり穢れた水を浄化する力のことだと古くから信じられているんだ」
「それで、私はどうすれば…?」

 エレニオルは困ったように笑う。

「それは、こう…神子の力で…」

 その場の誰もが黙り込む。沈黙を破ったのは、ミスティオの大きなため息だった。

「で、マクシェーン。どうすればいいんだよ、何か知ってるだろ?」

 ミスティオに問われたマクシェーンは、ゆっくりとした動作で髭をなでながら唸る。いくらマクシェーンが経験豊富な神官といえど、神子が現れたのはシュルムプカ有史以来の出来事だ。知らないのが当然である。

「困りましたな…、確かに女神シュルムプカの残した言葉通り、穢れた水を浄化する、というのは間違えていないと思われますが…そうですな、ミレーネに聞けば何かわかるやもしれません」
「ミレーネ…確か、マクシェーンが小さな頃に知り合った人魚の名前だったね」
「左様でございます。人魚は知識が豊富ですゆえ、力を貸してもらうと良いでしょう」

 美咲は「人魚」という単語に戸惑っていた。そんなものは、童話やおとぎ話の世界に存在する架空の生き物の名前だ。しかしどうやらシュルムプカでは違うらしい。

「ならミレーネに会いに行くのが良いね。彼女が居た場所は覚えてるかな?」
「それが…私も幼い時分でしたので、記憶が曖昧でございまして。なんとなくであれば覚えているのですが」
「そうか…闇雲に探すのは得策ではないね」

 エレニオルとマクシェーンは首をひねって考え込むが、ミスティオだけはやる気が無いらしく大きなあくびをしていた。しかし、そんな彼が目尻に溜まった涙を指の腹で拭いながら、思わぬ提案を持ちかける。

「じゃあフレムランカのババアに聞けばいいんじゃねえの」
「ああ…フレムランカのおババ様か…確かにそれはいいかもしれない」
「フレムランカ…人魚…おババ様…」

 話についていけない美咲は、聞き慣れない三つの単語をぽつりと呟いた。その様子を見たエレニオルが、顔を上げてにこやかに説明を始める。

「ああ、美咲。勝手に話を進めてすまないね。まずはこの大陸にある六大国の話をしようか。まずは僕たちが住む、このシュルムプカ。女神シュルムプカを信仰し、加護を受けている国なんだ。今は女神シュルムプカの力が弱まり、水の穢れが発生しているけれど…本来は美しく豊かな水が溢れる国だよ。水の国、とも呼ばれているね。フレムランカは火の国とも呼ばれていて、一年中暑いからシュルムプカの人々は苦手な人が多いのだけれど…フレムランカの神はとても強い戦神でね、そのせいか優秀な戦士が多く、性格も気さくで明るい人達が多い。喧嘩っぱやいのも特徴のうちかな…」

 エレニオルは話を続ける。鉱山に恵まれた地の国アーデイト。難攻不落の空中都市、風の国ウイラエイラ。そして対立し合う、光の国クロスラナと常闇の国ローゼスハイネ。
 数百年前は争いを繰り返し、領土を奪い合った六大国だが、現在はそれぞれの国を守護する神の力を必要とし、互いに協力し合って生きているのだと言う。
 ただ、クロスラナとローゼスハイネのように、戦争こそしていないものの対立している国もあり、シュルムプカとフレムランカも水と火という正反対の性質上か、積極的な交流は行っておらず、水を浄化している以外、国同士の付き合いは殆どない。
 説明を受けた美咲が軽く混乱すると、エレニオルは「ゆっくり覚えて」と微笑んだ。

「行くなら早いほうが良い、けど…支度もあるからね。二日後にここを出ておババ様のいるフレムランカの国境近くに向かおう。おババ様に会うのなら、僕と兄さんが直接出向いたほうがいいから、美咲と僕と兄さんの三人で出発だね」
「おいおい、それ俺いるのかよ。別に危ない道でもねえし、俺は留守番でもいいだろ」
「凶暴化した野獣が出るかもしれないだろ? 僕は戦闘向きじゃないんだから、兄さんも来てもらわないと」

 ミスティオは両手を頭の後ろで組み、チッと小さく舌打ちした。

「こんな時にあのじゃじゃ馬はいねえのかよ」
「もうすぐ戻ってくるとは思うけど…二日後に間に合うかは微妙だね。とにかく出発は二日後。留守の間、ここはマクシェーンに任せる。構わないかな?」

 マクシェーンは落ち着いた声で「かしこまりました」と答えた。
 美咲はこれまでの会話から、エレニオルがこの聖域で最も権力のある人物なのだと察する。マクシェーンとの関係や、恐らく実兄であるミスティオのことは、まだよくわからなかったし、ミスティオが「じゃじゃ馬」と称した人物のこともよくわからなかった。

「僕はそれまでにやるべき仕事を終わらせておくから、兄さんも体を慣らしておくように」
「へーへー」
「それじゃあ、美咲も疲れてるだろうから食事の時間まで休むといい」

 美咲は困惑したあと、最後のあがきとばかりに語気を強めて言う。

「あの、私本当に神子なんかじゃないんです! 家に…、病院に行きたいんです」

 エレニオルは困り、眉を下げながら美咲に返答をした。

「少しだけ待ってほしいんだ。美咲が神子かどうか確認する方法は、恐らくミレーネにならわかるはず。人魚は人嫌いだから、簡単に見つかるとも考えにくい。そこでフレムランカの国境にある、おババ様を訪ねてミレーネの居場所を占ってもらう。ミレーネならきっと、穢れを払う方法を知っていると思うんだ。その方法を試したあと、美咲が神子ではないと判明したら、必ず病院に送り届けるから…頼むよ。並行して書庫にある書物を徹底的に調べるから、君が元の世界に帰る方法も一緒に探すと約束しよう」
「……今日は…もう、休ませてもらいますね」

 何を言おうと、美咲は家にも病院にも行けない。しかし、希望がなくなったわけではない。書庫を調べて何かがわかるかもしれない。帰る方法が見つかる可能性もある。それに何より、今日は色々なことが起こり美咲も疲弊していた。

「ああ、そうだね。部屋を用意させているから、そこで休むと良い。食事の時間になったら知らせるよ」
「神子さま、私がご案内致します。こちらへどうぞ」

 物腰柔らかな女性神官が美咲に微笑みかけ、美咲を先導する。美咲はエレニオルとミスティオ、そしてマクシェーンに軽く会釈をした後、女性神官の後につきポータルの上に乗った。
 ポータルはどういう構造なのか美咲には皆目見当もつかず、一度歩いただけでの理解は難しそうだ。何度かポータルに乗り移動を繰り返した後、女性神官はアーチ状のドアの前で立ち止まった。女性神官が握り玉をひねりドアを開けると、美咲に中へ入るよう促した。
 中は質素だが寝心地の良さそうなマットの敷かれたベッドがある。美咲の足は自然とそこへ向いた。

「ありがとうございます。じゃあ私はこれで…」
「私は部屋の外で待機しておりますので、ご用命がありましたらお申し付けください」

 美咲はもう一度お礼を言い、部屋の中に入るとベッドに腰掛けそのまま後ろに倒れ込んだ。はあ、という深い溜め息が美咲の口から漏れる。
 何が何やら全くついていけない。
 今の美咲にわかっていることは、何故か自分が神子と呼ばれているということ。この国はシュルムプカという国で、同名の女神を信仰していること。そして美咲に穢れを払う能力があるかを調べるため、人魚に会わなければならないこと。そのためにも「おババ様」に会わなければならないこと。わかっているのは、この程度だが混乱するには十分だ。

「一体何が起こってるの…わからないよ…、先輩…」

 腕で目を覆い、キュッと唇を噛んだ。瞼の裏に映るのは、担架で運ばれる立樹の姿。

「先輩…」

 これは長い夢なのだと自分に言い聞かす。目を覚ましたら、きっと自分の部屋の見慣れた天井が目に入るはず。そうしたら、一刻も早く立樹の元へ行こう。
 立樹の顔を思い浮かべながら、美咲はゆるやかに夢の中に落ちていった。

 ぴちゃん…ぴちゃん…

「ん…」

 ぴちゃん…ぴちゃん…。
 水面に雫が落ちるような小さな音が、繰り返し部屋に響く。

「…、…」

 その音に呼応するかのように、どこからか声が聞こえた。とても小さな声でよく聞き取れないが、美咲の名前を呼んでいるかのように思えた。

「だ、誰?」

 外で待機しているという、先程の女性神官だろうか。気がつくと辺りは真っ暗で、ぼんやりとしか部屋を見渡せない。ドアの方を向き「あの!」と声をかけるが、外からの返事はなかった。その代わり、先程よりしっかりとした声で美咲をよぶ声が聞こえた。

「美咲…、…を手に入れなさい…」
「え…?」
「……を……」

 声はどんどん弱々しくなり、結局何が言いたいのか、何を伝えたいのかがわからないまま部屋は静けさを取り戻したが、それが不気味に思えた美咲はベッドから飛び降りると慌てて部屋のドアを開けた。あまりの勢いに、外で待機していた女性神官がビクリと肩を震わせる。

「わっ…い、如何なさいましたか?」
「い、今! 私の部屋に誰か入ってきませんでしたか?」

 美咲の突拍子もない発言に、女性神官は怪訝に首を傾げる。

「いえ、どなたもこの部屋には入れておりません」
「で、でも今」
「…そろそろお食事の時間ですが、神子さまはどちらでお召し上がりになりますか? エレニオル様やミスティオ様はご一緒に食事をされますが」
「あ…ご飯は、別に…」

 不要だと言いかけたとき、お約束のようにお腹がぐうと鳴った。

「お疲れのようですから、こちらの部屋でお召し上がりになりますか?」
「えっと、は、はい。お願いします」
「ではお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」
「その前に…お手洗いはどこにありますか?」
「先にお手洗いへご案内致しましょうか?」
「いえ、道順さえ教えて頂ければ食事の用意をして下さっている間に行ってきます」

 女性神官は柔に微笑み、トイレへの道順を美咲に伝えると、食事を取りに廊下の奥に姿を消し、美咲も道順を忘れぬうちに部屋を後にした。

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第一話 プロローグ

 

 寝支度を調え、ベッドの中で大事にしているテディベアを抱きながら、美咲は深いため息を吐いた。

(はあ…明日も行きたくないけど、そんなわけにはいかないし…)

 学校での成績は優秀なほうであったが、それだけで学園生活が楽しいわけではない。大人しい性格のせいか友達は少なく、当然のように親友と呼べる相手もいなかった。
 学校に行きたくない理由、それは迫りつつある体育祭の練習にある。美咲は運動が大の苦手であった。その中でも特に走ることが苦手で、毎年体育祭のプログラムに組み込まれる、一年生から三年生が三人一体となって走る三人四脚が悩みのタネだ。

(…先輩もいないし…)

 テディベアをベッドに寝かせ、自身も横になると美咲は去年の体育祭を思い起こす。

・・
・・・・・

「はあ、はあ…」
「ちょっと休憩するか?」
「はあ…大丈夫、です…足を引っ張ってすみません…」
「そうか? なら続けるけど…休憩したかったらいつでも言えよ」

 ニカッと笑った眩しい笑顔を思い出すと、美咲の胸がトクンと高鳴る。
 去年の三人四脚で一緒になった、青山立樹という美咲より一年先輩の男子生徒がいた。明朗快活で、女子にも男子にも人気のある生徒だ。滅多に自分のことを話さない美咲が、ぽろりと零した言葉がある。それは、練習の後ゼエゼエと息を切らせて座り込む美咲を見て、立樹が放った一言がきっかけだった。

「おいおい…美咲、大丈夫か?」
「み、美咲…?」
「名前で呼ぶのは変か? 友達には普通に名前で呼ばれるだろ?」
「…私は友達がいないので」
「じゃ、俺が友達第一号な!」

 その時笑った立樹の顔に、美咲は思わず見とれ、時が止まる感覚を覚えた。体育祭がきっかけで交換したメールアドレスには、頻繁にではなかったが立樹からメールが届くようになり、美咲は高鳴る胸の理由が立樹への「恋」であることを知ることになる。

・・・
・・・・・

 今年は美咲が三年生で、二年生と一年生を引っ張っていかなければならない。しかしコミニュケーション能力が低く、引っ込み思案な美咲は上手にリードすることが出来ず、毎日のように行われる体育祭の練習に嫌気が差していたのだ。
 美咲は携帯電話を持ち、立樹からのメールを見た。立樹に相談すれば、いいアドバイスが貰えるだろうか? いや、迷惑なだけだろうか。しばし悩んだ後、美咲は勇気を出してアドレス帳から立樹の名前を探し電話をかけた。コールが五回ほど鳴ると、明るい立樹の声が耳に入る。ザァザァという雨音が聞こえたことで、美咲は外で雨が降っていることに気がついた。

「おー、美咲。どうした?」
「あ、あの…遅くにごめんなさい。今大丈夫ですか? 外、ですよね」
「ちょっと駅前にな。何か悩み事か? 声暗いぞー」
「はい…体育祭のことなんですけど、今年は私が二年生と一年生をリードしなきゃいけないのに、相変わらず私は足を引っ張ってばっかりだし、上手にリードも出来なくて」
「ハハ! そんなことか。それはな…」

 直後、けたたましい音が受話口から聞こえ、美咲は思わず耳を携帯電話から離した。

「先輩! どうされたんですか? 凄い音が…先輩?」

 美咲がいくら問いかけても立樹からの応答はなく、聞こえてくるのは女性の叫び声と、救急車を呼ぶよう求める声、そして「事故だ!」という大勢の人々の声だった。美咲は何度も立樹を呼ぶが、相変わらず立樹の声は聞こえない。美咲の額に、嫌な汗が流れる。

「まさか先輩…!」

 立樹が事故にあったと決まったわけではない。しかし、家でじっとなどしていられない。パジャマのままでは気が引けるが、お洒落をしていく事態でもない。一番近くに掛けてあった制服を着用し、美咲は家を飛び出し駅前に向かった。
 駅前は人が集まり騒然としており、野次馬も大勢集まっている。その中に立樹の姿を探すが、どこにも見当たらない。野次馬をかき分け、前の方へ出ると担架で運ばれる立樹の姿が確認できた。

「先輩! 先輩!!」

 救急車はサイレンを鳴らして走り去り、しばらく経つと野次馬も一人、また一人と散っていく。最後に残った美咲は落ちていた立樹の携帯を発見すると、その場に立ち尽くした。

(嘘…私が電話をかけたせいで、先輩は…事故に?)

 美咲は頭を抱えてしゃがみ込み、ヒビの入った立樹の携帯を握りしめた。少し離れた場所にはパトカーが停まっており、事故を起こしたであろう運転手が事情聴取を受けている。
 まるで悪夢を見ているかのようだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、先輩…私の、…せいで」

 水たまりに膝を付くと、美咲の瞳からはポロポロといくつもの涙がこぼれ落ちた。涙は水たまりに落ちて溶け、降り注ぐ雨粒が水たまりを更に大きくさせていく。
 ふと、涙でぼやける視界の向こうに、何かが映っていることに気がついた。

「……?」

 ゆらり、とそれが動く。それは、長い髪の女性だった。水たまりの向こうから美咲を見つめている。状況だけで言えば恐ろしい出来事のように思えるが、美咲は不思議と恐怖を感じなかった。水たまりの向こうに映る女性は、そっと腕を美咲に向かって伸ばす。ちゃぷ、と水たまりの揺れる音が聞こえると、白い腕が美咲に向かって伸びる。

「……」

 これは誰なのか? 夢なのか? 幽霊の類だろうか? 女性の白い腕は美咲の頬に今にも触れそうだ。美咲はぎゅ、と固く目をつむったが、頬どころか体のどこにも女性の腕が触れる感触はない。
 不思議に思った美咲が恐る恐る目を開けると、そこは川の流れる美しい草原だった。空は快晴。濡れている髪や制服から、先程まで雨の降っている駅前にいたのは確かだ。
 背後でガサガサと草をかき分ける音がなり、美咲はびくりと肩を震わせた。

「おい、本当なんだろうな。嘘だったら怒るぞ」
「嘘なんかじゃないさ。確かこっちに…あっ」
「…!」

 突如草むらから現れた男性二人に驚き、美咲は言葉を失った。

「す、すみません! ここで水浴びしてるなんて思わなくて」
「バーカ、服着たまま水浴びするやつがいるかよ」

 白い法衣のようなものを纏った大人しそうな男性と、頭にターバンを巻いた男性の二人組だ。二人の刺さるような視線に耐えかねた美咲がおずおずと口を開く。

「あの…何か?」
「すみません、俺たち探しもの…というか人? がいて…」

 歯切れの悪い法衣の男に美咲は首を傾げ、ターバンの男は怪訝そうに美咲を見つめる。

「おい、お前随分変わった格好してるな。どこの国から来た?」
「え? 変わった格好、って…制服のことですか…?」
「どこの制服だ、言ってみろ」
「……」
「兄さん、そんな高圧的な態度はやめなよ。すみません、この辺りに光が降りたのを見たのですが、何か見ませんでしたか?」
「いえ…」
「じゃあなんでそんなにびしょ濡れなんだ? 今日どころか最近、シュルムプカに雨は降ってねえぞ」
「シュルム…プカ?」

 先輩の事故、長い髪の女性、突然変わった景色、聞き慣れぬ単語。美咲の頭は混乱していた。先程は確かに雨が降っていたはず。それは美咲の髪や制服についた水滴が証明している。

「先輩…」
「あ?」

 立樹が事故にあったことを思い出し、美咲は俯き静かに泣き出した。

「ほら! 兄さんがそんな怖い顔と声で言うから」
「どっちも生まれつきのもんだ、ほっとけ。…おいお前、名前は?」

 美咲は指先で目尻に溜まった涙を拭うと、小さな声で「美咲」と答えた。

「美咲、か…美咲ね。おい、一度俺たちと一緒に来い。聖域に連れて行く」
「わ、私は病院に行かないといけないんです」
「病院ってどこか怪我をしているのか? それなら僕が治してあげるから大丈夫。兄さんの言う通り、君には一緒に来てもらったほうが良さそうだ」
「でも…」
「君は少し今の状況に混乱しているように見受けられる。もっともそれは僕たちも同じ…けれど、この現象について心当たりがあるんだ。もし君が無関係であったなら、僕たちが責任をもって君を家まで送り届けると約束するよ」
「わかりました。でも家じゃなくて病院に連れて行って頂けませんか? 先輩が…知り合いが病院に運ばれているはずなんです」
「わかった、約束しよう。それじゃあこっちへ、足元に気をつけて」

 法衣の男は草をかき分け道を作り、美咲を先導した。
 歩くこと二十分ほど。美咲は二人に連れられ、大きなピラミッド状の建物の前に到着した。宝石のようなタイルの間からは透き通った水が溢れており、まるで水のヴェールに包まれているようにも見える。壮大で美しいピラミッドに、美咲は感嘆の声をあげた。

「エレニオル様! ミスティオ様! やはり私たちに黙って外出されていらしたのですね。全く…」

 ピラミッドばかりに注意が向いていたが、下の方に目線を移すと、門番なのであろう女性が立腹した様子で立っていた。

「あはは、ごめんごめん。けど…もしかしたら僕たち、見つけたかもしれない。ついに、さ」
「見つけた…? ということは、その頼りなさげな女の子が…?」
「……」
「……」
「あ、あの…」

 美咲は、じっと自分の顔を見たまま何も言わない女性に戸惑い、自分から声をかけた。女性はハッとした様子で姿勢を正し、お辞儀をしてニコリと微笑んだ。

「ようこそシュルムプカへ。どうぞ、中へお入りください。エレニオル様とミスティオ様も。マクシェーン老師にあまりご心配をおかけにならぬよう」
「へいへい、お小言はまた今度な。じゃ入るぞ」

 美咲はターバンの男に引っ張られ、ピラミッドの中に足を踏み入れた。美咲の頭は混乱しっぱなしで、ただ黙ってエレニオル、そしてミスティオと呼ばれた男二人の後ろをついて歩く。
 長い長い廊下の両側にも水が流れており、ピラミッドの中は水のせせらぎと三人のバラバラな足音が響いていた。その廊下の先にあったのは、人が一人立てる程の大きさがある平べったい石だ。

「さ、乗れよ」
「乗る?」
「いいから乗れって」

 乗って一体何をするのかわからず、美咲はただただ戸惑うばかりだ。

「それは違う階層に一瞬でワープするポータルだから怖がる必要はない、…ってきちんと説明しなきゃ駄目だろ、兄さん」
「一々どんくさい女は嫌いなんだよ、ほら」
「きゃっ」

 ターバンの男に背中を押された美咲は、バランスを崩しながらも辛うじて石の上に立つことが出来た。足元にある石の周りに波紋が広がり、次の瞬間には景色が変わる。
 次に出た部屋は大広間で、やはりここにも水が流れていた。室内に設けられた小さな池のようなスペースには、蓮の花がゆらゆらと揺れている。

「別に怖かねぇだろ?」
「はぁ…」
「マクシェーン! マクシェーン、どこにいる?」

 部屋の奥から、一人の老人がゆっくりと姿を見せる。法衣の男と似た白い法衣を身にまとっており、年齢は七十歳前後だろうか。とても優しい顔立ちの老人だ。

「エレニオル様、そのような大声を出さずとも聞こえておりますよ。マクシェーンはここにおります。どうなさいました?」
「シュルムプカの伝説は本当だったのかもしれない。僕も信じられない気持ちでいっぱいだよ」
「…まさか、先程お出かけになられたとお聞きし…、落雷ではと思っておりました。そちらの少女が?」

 マクシェーンと呼ばれた老人が、加齢のせいか小さくなった目を大きくして美咲を見ると、美咲は気負いしターバンの男の背後に隠れた。ターバンの男は更にその背後に回り込み、美咲の背中をグイッと押す。

「シュルムプカの神子なんて、どんな神々しい美女かと思いきや…ガキじゃねぇか」
「兄さん! 女性にそんなことを言うなんて失礼だろ!」
「エレニオル様、ミスティオ様も…まずはそちらの女性に着替えを用意し、その間入浴場でゆっくり休んで頂いては如何でしょうか? 話は長くなりますし、髪や服が水に濡れて…聖域の中は涼やかですからな、濡れたままでは些か寒いかと思われます」
「あ…た、確かに。美咲、入浴場へ案内させるから風呂に入ってくるといい。自己紹介も含め、話はその後にしよう」
「エレニオル様、それでは私がご案内致します。よろしいでしょうか?」

 どうやら法衣の男がエレニオルという名前のようだ。彼は女性の申し出を聞き入れ、女性は美咲に微笑みを向けて「私が先導しますので」と口を開き歩き出す。先程とは別のポータルの上に立ち移動すると、再び景色が変わる。基本的には同じ構造なのか、廊下の両脇に水が流れており、蓮の花が揺れている。未だ混乱はしているものの、少し余裕が出てきた美咲は蓮の花にしばし見とれた。

「聖域に咲く蓮の花は美しゅうございましょう?」
「え、ええ。そうですね」

 元から人見知りをする美咲は、恥ずかしさを隠すためやや俯いて歩くことにした。女性はそれ以上声を発することはなく、やがて石造りのドアの前で足が止まった。

「ここは私達神官見習い用の風呂場なのですが…こちらでよろしいですか?」
「私はどこでも…あの、大丈夫です。お借りします」
「服はなかなか乾かないかもしれませんね…。ご入浴の間に、簡単なものではありますが服をご用意しますので」
「そこまでして頂かなくても…」
「ふふ、神子さまってとても控えめな方ですのね。それでは、ごゆっくり」
「えっ、あの!」

 引き止める声も虚しく、女性はお辞儀をしてドアを閉め立ち去ってしまった。確かに美咲の体は濡れた制服や髪のせいで冷えていたため、風呂を借りられるのは有り難い。シャワーで体を流した後、普段は大勢で入るのであろう、一人で入るには広すぎる浴槽に身を沈めた。

「ふう…。のんきにお風呂なんて入ってて、いいのかな…」

 温かな湯が雨のせいで冷えた美咲の華奢な体を包む。

「きっと夢だよね…、だから先輩もきっと…」

 風呂の湯に反射する美咲の顔は今にも泣き出しそうだ。

(きっと夢だから…もうすぐ、覚めるから)

 右目から流れた一筋の涙は、湯の中に落ちて溶けていった。

 ─…十分に体が温まり、風呂からあがると制服の代わりにタオルと代わりの衣服が置かれていた。先程の女性が着ていたものと同じだろう、黒いサテンのワンピースと、半透明のストールが二枚。美咲はお洒落に疎いこともあり、ストールを二枚もどのように着用すればいいのかわからず、四苦八苦していると「失礼します」の声の後、ドアが開いた。

「あら…私としたことが、お着替えお手伝い致します」
「すみません」

 ワンピースはただ着るだけだが、どうやら半透明のストールは真ん中を肩にかけ前後に垂らし、ベルトを用いて腰で固定し、それより下は垂らして着用するようだ。

「とてもお似合いですよ。では大広間に戻りましょう、神子さま」
「ずっと気になってたのですけど…神子さま、って何ですか?」
「え? エレニオル様やミスティオ様からご説明を受けていらっしゃいませんか?」
「はい、何も…なので一体なんのことかわからなくて」
「大広間に戻れば、エレニオル様とミスティオ様がご説明されると思いますわ。詳しいお話はお二方からお聞きくださいませね」

 来たときと同じポータルに乗り、美咲は先程の大広間に戻った。先程よりも空気は重たく、美咲の歩く道を守るようにして神官たちが立っている。美咲を先導していた女性もそこに並ぶと、通路の先に立つ神官の男─恐らくエレニオルという名前の男だ─が美咲を呼んだ。美咲はゆっくり通路を進み、うつむき加減で口を開く。

「あの…」
「まず自己紹介が遅れたことを許して欲しい。僕の名前はエレニオル」

 白い法衣を着た男が名を名乗った。品の良い豪奢な椅子に座ったエレニオルは優しく微笑んだ。

「で、俺がミスティオ。見ての通り、エレニオルとは兄弟で俺が兄」
「…私は佐倉美咲です。お風呂と着替え、ありがとうございました。それで、ここは…?」
「それも説明が遅れたね、本当にすまない。ここはシュルムプカ。女神シュルムプカを信仰している国で、この建物はシュルムプカの中心に建てられている“聖域”だ。とても古くからある由緒ある建物だけど、正式な名称は誰も知らない」
「は、はあ…」
「…それで、僕は先程たまたま建物の外に強い光を見た。それで僕は兄さんと一緒にさっきの川へ向かったわけだけど…そこに見慣れぬ格好の美咲がいた。兄さんが言ったとおり、ここシュルムプカにはこの数日間雨が降っていない。水浴びをしていたとも思えないけど、あそこで美咲は何をしていたのか教えて欲しい」
「……」

 そんなことを聞かれても、と美咲は口をつぐむ。立樹が救急車に運ばれている姿がフラッシュバックし、体がぶるぶると震えた。何を言えばいいのかもわからないが、言葉を発することも難しい。震えだした美咲を見て、エレニオルはマクシェーンに助言を賜ろうと視線を向けるが、マクシェーンはひげを撫で、目を細めて美咲をじっと見るだけだ。

「シュルムプカでは近年、大小を含めた様々な異常が発生している。神聖なる水の汚染、その水を飲み凶暴化する人々や動物…上げだしたらキリがない。古よりの伝承で、シュルムプカを始めとする六大神は、その神力を持って異なる世界に干渉する力をも持つと言われている。そして己が守護する国に危機が訪れた時、神に選ばれし神子をこの世界に召喚する、と」
「まぁ要するに、美咲が神子なんじゃねーかって話になってるってこった。相変わらずエレニオルは話がなげーな」
「兄さん! 全く…。美咲、君が異世界から来たのではないのなら、どこから来たのかを教えて欲しい。教えられるはずだろう?」

 皆の視線が美咲に集まる。美咲は緊張しながら、言葉を選んで口を開いた。

「私は…夢を見ているのだと思っています。シュルムプカという国名は見たことも聞いたこともありません。きっと…きっとショックで夢を見ているだけなんです。だから先輩も、先輩も…」

 先輩という言葉を発した途端、美咲は目尻いっぱいに涙を溜めたが、すぐに指で拭い取った。

「おいおい、夢なんかじゃないぞ。シュルムプカはここに存在している。国も、民も、そして神もだ。現実受け入れろよ」
「兄さんは口を挟まないでくれよ…。すまない、美咲。兄さんも国を思ってのことなんだ。許して欲しい」

 美咲は俯いたまま、気にしなくていいという意を込めて首を横に振った。

「大丈夫。君が神子かどうかを確かめる簡単な方法があるんだ。それを行えば、女神シュルムプカから力を授かっているか否かがすぐにわかる」
「授かって、って…私は普通の女子高生で、特別な力は何も持っていないです」
「四の五の言わずにさっさとやれって。すぐにわかるらしいぜ。俺も実際に見たことはねえけど」
「女神シュルムプカが残した言葉があるんだ。我召喚せし神子、穢れを祓い清らかなる浄化の能力を得る、とね。もうすでに準備はできている。美咲が神子じゃないとしたら、先程の約束通り責任を持ってどんな手段を使ってでも、君を家まで…ああ、病院だと言っていたっけ。送り届けると約束しよう。だから一度それを試して欲しい」

 美咲は受け入れがたいことの連続で憔悴していたが、違うとわかれば病院に向かえるのだからと自らに言い聞かせ「わかりました」と小さく呟いた。

 

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